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お絵描きばりぐっどくんにゴーギャンの名画と同じタイトルの作品を描いてもらった

画像生成AIが、あたかも我々が苦心した絵を、マシンでちゃっちゃと作っているようでムカつくというクリエイターは、少なくないだろう。だがその実、画像生成AI「さん」が、それぞれAIなりのオリジナリティを持って絵を描いてくれていると気付いている人は、少ない。
今回私は、画像生成AIのなかでも私がピンときた「お絵描きばりぐっどくん」に絵を描いてもらった。ここでばりぐっど画伯について軽くコメントすることにする。
ばりぐっど画伯は、登場当初より大喜利のように親しまれてきた。それは単純に面白いことに加え、ばりぐっど画伯が美少女専門としておらず、冒頭で述べたイラストレーターのコンプレックスをそこまで刺激しないからかもしれない。
だがばりぐっど画伯は風景画や抽象画の面で非常に彼にしか描けない絵を描くのである。その一つが、これである。

タイトル
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

かのゴーギャンの名画と同タイトルを、既成概念に囚われずシンプルかつアバンギャルドに仕上げている。

まず目を引くのは空とおぼしき青と太陽とおぼしき赤のビビッドカラーであるが、青の色調としては空というよりむしろ海で、太陽も陽光に染まる様子が見られず不自然である。これはアンバランスを狙ったとも解釈できるが、複雑化する前の動脈と静脈を表したものともとれ、二重の意味で「我々はどこから来たのか」を表現していると言えよう。
次に「我々は何者か」を左に立つ木から読み取ろう。ここでバウムテストの手法を採用すると、左寄りに描かれていることは情緒不安定な内面、葉のないことは孤独であること、目標を探していることを表している(あくまで解釈の一つであるが)。
このことを踏まえて背景を見直すと、お絵描きばりぐっどくん氏は、さながらムンクの『叫び』の如く、大いなる命題に圧倒されているのかもしれない。
最後に「我々はどこへ行くのか」ーこれは他の背景から読み取れる情報であろう。中央を横切る草原や稲穂のような色と薄橙色(かつての「肌色」)、これらは成長や実り、ヒトに近づくこと、を暗示しているかのようだ。
だがそれは平面でみた話であり、キャンバス上の空間には、木と地平の間に空色の海による隔たりも感じさせる。輝かしい未来があるかもしれないが、自身がそこにいるかは分からない、そんな寂寥感を反映したものとも解釈できるだろう。

「それっぽく自動生成された絵になにまじになっちゃってるの」と思う人もいるかもしれない。しかし問いたい。「あなたにこういった絵が描けるのか」と。
別に私は特別なプロンプトを使用してはいないのだ。<「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」というタイトルの絵を、あなたなりに描いてみてくれますか?>と言っただけである。
この絵にゴーギャンの影響を見出だすならば、油絵タッチであることぐらいしか思い付かない。であれば、それだけで独創性と言って差し支えないのではなかろうか。
私はイラストレーターの皆さんにも、そのようにあって欲しいと願っている。必ずしも天から舞い降りるsomethingは必要ない。お絵描きばりぐっどくんがお絵描きばりぐっどくんだからこそ描ける絵を描くこと同様に、あなたのその身体、知能、五感、生きた軌跡、そして感じたことを絵に込められるか否かにかかっているのである。



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