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孤独な野球人が語らなかった8年間の物語:鈴木忠平『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』



 落合は勝ち過ぎたのだ。勝者と敗者、プロフェッショナルとそうでないもの、真実と欺瞞、あらゆるものの輪郭を鮮明にし過ぎたのだ。
P.427より


 作中にも少し触れているくだりがあるが、中日新聞には創業家が二つ存在する。「新愛知」と「名古屋新聞」という二つの新聞社が1942年に統合されて誕生したため、新愛知の大島家、名古屋新聞の小山家がそれぞれ創業家となっているのである。
 新愛知は名古屋軍と大東京軍、名古屋新聞は名古屋金鯱軍と、かつてはそれぞれが球団を保持していた。

 この「ツーインワン」の構造はそのまま派閥争いとして残り、<歴代監督人事にも影響を及ぼしていると囁かれていた(P.316)>と『嫌われた監督』にも書かれている。正力松太郎や渡邉恒雄という揺るぎないトップが存在する読売とはまた毛色の異なる、中日の複雑な内部構造を私が知ったのは、それこそ落合政権時だった。

 そうした「社風」というような言葉で簡単に片づけることのできない、長きにわたって構成されたであろう独自の雰囲気を、この本に登場する中日球団の内外の人間の言動からも感じ取ることが出来る。
 プロローグに登場するかつて中日担当の記者だった著者の上司も、星野仙一は<仙さん>と呼ぶのに対して、落合博満に対しては<投げやりに「オチアイ」>と呼んでいる。落合という孤高の野球人に対して、それぞれが抱いている一筋縄にいかない感情が見え隠れする場面が数多くある。


 落合が率いた当時の中日は、間違いなく「黄金時代」と形容されるべき強い球団であった。選手たちも「職人」というような、豪快さとは異なる神妙な顔つきでプレーし、堅実さと強固さを兼ね備えたチームを作り上げていった。

 その「職人」たちを束ねる落合は、常にうつむきがちに歩き、決して多くを語らず、徹底してストイックに勝利を追求した。時に完全試合を継続していた山井大介すら降板させてまで日本一を獲りに行った姿勢は賛否を呼んだ。
 この2007年の日本シリーズの交代劇は岡本真也の章で細密に書かれているが、この本の中でもっとも緊迫した場面になっている。

 極限まで成果主義で指揮をする落合には、華やかな成績とはまた別の視点から、冷ややかな目線が向けられた。
 当時落合中日と渡り合った巨人の指揮官である原辰徳は、まるで落合と対をなすかのように、グータッチと豊かな喜怒哀楽で、選手を含めた周囲の人心を掌握していたが、原とは対照的な落合だったには、どんどんと厳しい逆風が吹き荒んでいく。
 強いけれど嫌われる。そうした理不尽にも見える落合を取り巻く環境を、重厚な文章で読み進めることができる。


 53年ぶり日本一、球団史上初の連覇を含む4度の優勝、全てのシーズンをAクラスで終えるという圧倒的な強さを見せつけながらも、落合ドラゴンズは終始緊張感を維持し続けた。
 『嫌われた監督』に描かれてた8シーズンは、華々しい成績とは裏腹に、「夢」や「ロマン」といった言葉とは無縁かつ、わずかな気のゆるみさえ認めない重苦しさが支配していた。「だからこそ強かった」とも言えるし、「だからこそ好かれなかった」とも言うことが可能なのである。

 この本は、「落合は凄かった」でも「落合はいかがなものか」という内容でもない。自らの哲学を追いかけた落合を冷静に描写し、読者自身が落合への評価を考えられるような語り口になっている。
 読了後、読者は落合を語るにあたって、「自分は野球というものになにを求めるか」と、自らの価値観と対峙することになるだろう。こうした後味を残す野球ノンフィクションは、そう多くないはずだ。


 落合はよく野村克也と比較されることもあるが、この本を読んで、少なくとも「監督としては」あまり似てない、むしろ正反対なのではと感じた。野村は楽天監督時代に「♪バッカじゃなかろかルンバ〜」とおどけた姿を見せたこともある野村に対して、落合はそうした面を一切見せなかった。

 一方で落合が野村に似てるとされる一因に、「夫人」の存在が挙げられるが、こちらは野村、落合のふたりの共通点として近いものを感じた。

 福留孝介の章に、著者が落合邸を訪れ、信子夫人と若き日の博満との思い出を語る場面がある。長くはない場面だが、信子夫人の夫への愛情と、きっぷの良さが垣間見ることができる。張り詰めた描写が多いこの本においては、数少ない朗らかな場面だ。
 戦いのプロであった落合も野村も、夫にさえ勝る情熱を持った伴侶を得、野球人とは違う顔で家庭を持つということに、なんというか「合点がいく」ものがあった。


 2019年8月6日に放送された『徹子の部屋』に落合福嗣が出演していた。博満とともに都市対抗野球に観戦に行った際の逸話を紹介していたが、人生で初めてビールを片手に観戦した博満は「こんなに楽しいもんなんだな。野球って」と息子にこぼしたという。
 グラウンドにいた当時、野球を完全に「仕事」として捉えていた、落合博満の野球観が如実に表現されている一言ではないだろうか。


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