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聡明な嘘つきの手付き

あなたは、嘘をついたことがありますか?

ほとんどの答えがYesなんじゃないかと思います。嘘はコンパクトで、最低限で、キャッチーな場合が多いのではないでしょうか。

どうしてこんなことをしたの?と問われ、本当のことを冗長に答えるのではなく、誰もが納得しやすい形で言葉を紡ぐこと。
あなたはどんな夢を持っていますか?と問われ、本当のことを答えるのではなく、割愛してキャッチーな肩書を答えること。

こういった応対は、嘘なのか?それとも生活やコミュニケーションのスキルなのだろうか。


嘘の役割

嘘をつくことは、ひどく嫌われ、疎まれ、忌避されてきた。正直であればあるほどよいのだということは、一体誰に教え込まれたのだろう。
不誠実で、狡猾な行為だと指摘される「嘘をつく」行為。保身、責任逃れ、被害者意識の増幅に加担する言葉など、嘘の多くは誰かの立場を守るためであったり、居場所を担保するために用いられている場合が目立つ。

だけど嘘をついた時に出る言葉は自身を助ける。業績をでっち上げ、経歴をごまかし、下駄を履かせたとき、きっとその場では背筋が伸びている。これらは「見栄」の一言で済ませられることではないだろう。信頼と実績が必要だと思われるシーンで、自身の発言権を他人に渡さないための鎧のような役割を持つだろう。嘘は、立場の弱い人間のための方法でもあるのだと思う。

勝手な定義と嘘、他者からの承認

例えば私がアーティストだと名乗る時、これは嘘か真かどちらだろう。
例えば誰かが「スーパーマリオブラザーズの開発者」だと名乗る時、それは嘘か真か。
例えば誰かを「第一人者」と呼ぶ時、「恋人」と呼ぶ時、「師」と呼ぶ時、それは噓なのか、本当なのか。

真実はどこにもない。私がアーティストを名乗り、私をアーティストと呼ぶ人がいる。私を恋人と呼ぶ人が居て、私はその人の恋人だと名乗る。私が師として仰ぐ人が居て、その人が私を目にかけてくれる。
双方の認識があることで初めて、真実めいてくる。自身の定義を他者から承認される形でなければ、全ての自己定義に「自称」という枕がついてまわる。

自称〇〇と、他者からの非承認

逆に言えば、「自称」という枕をつければ何者にもなれることになる。
自称・政治家。自称・起業家。自称・アーティスト。自称・研究者。自称・ホームレス。自称・タワマン住人。自称、自称、自称。
経験や肩書を自称することは、先述した通り、嫌われ疎まれ忌避される。だけどそれは、特定の形式を除けば、条例違反でも法律違反でも憲法違反でもない。嘘をつくことを禁じてくるのはいつも、身の回りの人間なのである。

矛盾を抱える「私」に似合う言葉とは?

「被害者ぶりやがって」という言葉は、客観的に見て被害者ではない人による被害者像の上演に向けられる。
「そんな苦労もしてないくせに」という言葉は、客観的に苦労をしていない人による苦労話の上演に向けられる。
「専門家でもないくせに」という言葉は、専門性とは何かを定義しない批判者がそれを棚に上げ、人の言葉の尊厳を貶めるために使われる。

これらは全て、加害者が被害者であること、苦労を知らないように見える人間が苦労人であること、特定のことを考えている人々が専門家とそうでない人に区切りきれないことを、分断するための言葉だ。
パワハラをする人は、24時間誰かにパワハラをしているわけではない。ケアラーも、24時間誰かをケアして過ごすわけではない。政治家も、起業家も、24時間365日その属性を強いられる必要はない。ラベリングのオン・オフを使い分けて良いはずなのである。
一貫性のない私達(とその生活)を、便利な言葉で呼び分けているに過ぎない。

だけど嘘つき呼ばわりされないために、私達は細心の注意を払ってはいないだろうか?アーティストを名乗る時、私は誰かに向けて空虚に上演するアーティスト役を降りることを許されなくなる。私の友人が医者を名乗る時、慈悲深く聡明である人柄に寄せて過ごすだろう。

聡明な嘘つきの手付き

私にはわかり得ない誰かの苦労を語る時、「私の意見でしかないんだけど」「私には想像もつかないことではあるんだけど」と前置きする。(これは立派な気遣いでもあるけど、逆に「私の意見でしかない」言葉以外に、なにを発言できるというのだろう?)

対外的にわかりやすく演じる「私」から逸れないように言葉を紡ぐこと、逸脱せずに規範的な範囲からはみ出した発言をしないように言い訳とチューニングをすることを、私は聡明な嘘つきの手付きだと思ってやまない。
考えていること、正直な気持ち、抑えられない思いはいつも、誰かに伝えるには情報過多である。伝達に時間を要し、コストがかかることだ。だからインスタントに情報を伝えるために、数え切れないほどの部分を捨象しているのである。

SNSなどに投稿する際に、潔癖すぎる人々に向ける言葉を精査する時間は、「私は嘘つきではないですよ」と言い訳する時間にほかならないし、愚痴を誰かにこぼす時、漫談のように明るさ暗さを調整するものである。

泣いてもないのに「泣いちゃった」と言うこと、笑ってもないのに「ワロタ」と言うこと、しんどくないのに「しんどすぎ〜」と言うこと、嬉しくもないのに「めっちゃ嬉しい!」と言うこと。これらも例外ではない。退屈な人生を凌ぐため、実際とはギャップのある言葉を発することもまた、聡明な嘘つきの手付きである。

自身をわかりやすい言葉で語ること

キャッチーで、明るさの中に暗さを持ち、他者に語る言葉は最低限に「私」を作り上げる。これを上手くできる人たちを、コミュニケーション強者と呼んできた。
それと同時に、それができない人をコミュ障とも呼んできた。

コミュ強は、聡明な嘘つきだ。だからコミュニケーションが苦手な人は、もっと気軽に嘘をついてみたらいい。そしたら簡単に人に愛され評価されたりするんじゃないんだろうか。

そんな人材評価めいたものはクソ食らえだ(!!)と思うけど、同時にただの技術でしかないことに希望を覚える。セルフプロデュースというかっこいい名前の付いた嘘を、有名人やインフルエンサーから学ぶことは、悪手じゃないだろう。

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