適切な距離感って

これまで人と関わり始める方法について考えてきたことに続いて、人とどのように継続的にかかわっていけるかをこの1年間考えていた。理由はきっとたくさんあるけれど、私が私の声を聞くようになったことが大きいと思う。

大好きだった人を彼氏と呼ぶのをやめてからというもの、彼とのデートに使っていた時間をひとりで初めて行くお店に行くことに費やしてみたり、実は何度かデートへ出掛けていた。その最中私が感じていたのは、その場の盛り上がりとは裏腹に、疎外感と嫌悪感だった。

恋人が居らず、なんでも逐一報告するような距離感の相手もいない間の私は、知り合って浅い相手に少しだけ知ってもらうような関係を築き続けていた。本名すら教えていない相手や、所属は教えていても活動内容について大して共有もしない相手、収入を得ている仕事については話しても自身が本業としていることについて話したことのない相手。大学に所属しながらデザイナーとして独立して生計を立てていることや、大学の中で演劇の理論を参照しながら芸術活動の実践と研究を続けていること、恋人というはっきりとした関係の構築の是非について長く悩んでいることは、出会って間もない人間にとってはわかりづらいと知っていた。だからそれらを秘匿し、聞かれたことに雑に応答し、私自身をデフォルメし、ほんの一部だけ伝える方法を覚えて実践してきた。

大学院で研究を続けようとしていることも、会社を辞めて独立したことも、恋人と明言された関係を疑っていることも、他者からしたら気になることなのだろう。結果としてたくさんの質問を受けることになった。どんな研究をしているの?独立してフリーでデザインの仕事をやるっていうのはどういう状態?新たに恋人が欲しいと思わないの?そんな質問責めに合う1年間、私はその質問の主と私との距離感について悩んでいた。

フリーで行っているデザインの仕事については、世間話として相手に話すことができた。だけど、どんな研究をしているかについて話すには言葉が通じる相手を選ぶほかなかった。そして恋人が欲しいかとか結婚がしたいかとか聞かれた時には「なんでそんなにプライベートな話をしなくちゃならないんだ」と感じた。

よく知りもしない他人に私のことを根掘り葉掘りされることに、だんだんと嫌気がさした。ネガティブなインスタのストーリーを挙げると「まぁまぁ落ち着いて」とDMを送ってくる人を、私は鬱陶しいと思った。私が何を感じ、何を表に出したとしても、少なくともあなたには関係のない話だと思った。返事もしていないのに連絡をよこし続けるその人に、私はやっぱり嫌気がさしていた。相手の言葉が単純に私への興味からくるものか、邪な思いからくるものか、くらいの見分けは鈍感な私にもついた。

ある人が言った「東京藝大なんだ、すごいね」という言葉の裏にある「俺も条件がそろえばお前よりも優秀だった」という感情や、ある人が言った「フリーランスとして仕事しているなんてすごいね」という言葉の裏にある「どうせ不安定な働き方でしょ」という思いや、ある人が言った「相手のことを真剣に考えているんだね」という言葉の裏にある「面倒臭い女だな」という実感は、鈍感な私にもキャッチできるものだった。

もちろんこの類の言葉の全てが、そのようなネガティブな思いから発されていないことを私は知っている。思ったことをそのままに言葉にする人がいることも、思ったことを自身の中で取捨選択して、慎重に言葉を選んで発している人がいることも知っている。だけどやっぱり、私を一般的な規範に押し込めて、あれこれ指南しようとしている人たちの言葉に対しては私は敏感だった。

私を「変わった人」と決めつけて私の言葉を聞かない人、私を「面倒臭い人」と決めつけて私の言葉を聞かない人。そんな人が現れるのは当たり前のことだと理解できるけど、そういう人たちと深く関わっていきたいと思えるわけもなかった。

そんなことを思っているうちに、私には踏み込まないでほしい領域があることに気がついた。
手を繋いだりキスをすることよりもよっぽど、私自身のことを尋ねられることに敏感だということに気がついた。
私自身のことなど興味がない人が繰り出す雑な質問に誠実に答え続けることは、私にとっては苦痛でしかなかった。

「博士課程に落ちたら就職するの?」「将来どうなりたいの?」「結婚願望はあるの?」などといった将来についての質問は、やはり多い。これからもたくさん尋ねられるのだろうなと諦めもつくけれど、まだ関係性も出来上がっていない相手に、答えを聞く気もないのに尋ねられることは少し腹立たしかった。こちらも「勤めている会社が倒産したらどうするの?」「今やっていることはあなたが心からやりたいことなの?」「恋人ができたらその未来に何を願うの?」と聞いてやろうかとも思った。私が一般的な20代後半の女性ではないということが、何でもかんでも質問責めされても良い理由になることに納得がいかなかった。

そんな中、私はある人に出会った。私は彼に、聞かれて嫌なことを聞かれたことがなかった。されて嫌なことをされたことはなかった。二人でご飯に行った夜も、手を繋がれたり身体を触られることもなかった。私がその人に抱く好意が恋愛感情に近いのか、友人に抱く感情に近いのかというジャッジを急かされることはなかった。恋人がいるかどうかも将来どうしたいかも聞かれなかったし、人生について何かを指南される気配もなかった。自分が何か言ってみたことについて尋ねられたり、相手の発言について詳細を尋ねたり、そんな心地の良いラリーを続ける間柄が、私にはとてもよかった。

私はそんな彼と共有する時間を私の居場所なのかもしれない思うようになった。彼と私が少しずつ距離を詰めていく穏やかな速度が好きだった。彼と話をする間、私は安心のせいか、いくらでも私自身のことを話したいと思った。私のことを彼に知って欲しい、興味を持って欲しいと思った。そのためのアクションに対する彼のリアクションとしての言葉が心地よかった。私はもっと彼と同じ時間を過ごしていたいと思うようになっていた。私はもうとっくに彼のことが好きになっていた。そうして私は彼とお付き合いすることになった。

恋人になってから初めて行ったデートで、私は初めて彼の手を握った。彼は私に「意外と甘えん坊なんだね」と言った。とても恥ずかしかったけれど、私の言葉ではなく行動から私を推し量ってくれたことが嬉しかった。初めて自分じゃない誰かに触れるような高揚が私を襲った。ゆっくりと詰めてきた心の距離感と裏腹に、「恋人」という形式が彼の身体に触れることを許してくれた。すると、手を繋いでいる私たちにしか許されないプライベートな空間が生まれる。さっきより近い場所から彼の目を見て、私が立ち止まれば彼も立ち止まり、彼が立ち止まれば私も立ち止まる。彼の声が、付き合う前に話した時よりも近くから聞こえる。私はこれから彼のことをもっと知って、彼に近づいていけるような気がして嬉しかった。私はたくさんたくさん彼の手を握りしめた。彼ともっと近づきたくて、彼にもっと私のことを知って欲しくて、彼のことをもっと知りたいと願った。

彼とお付き合いを始めた日、私たちはまだ互いを本名で呼んだことがなかった。だから、私は本名で呼んでも良いかを尋ねた。快諾してくれた彼は、私のことも本名で呼んでいいかと聞き返した。もちろん私も快諾して、彼は私を呼び捨てで、私は彼をさん付けで、時々呼び捨てすることに落ち着いた。私は元来、人を呼び捨てすることが苦手だから、10歳以上年下の中学生にも、歳の離れた高校生にも、少ししか歳の離れていない後輩にも「さん」をつけて呼んでいる。「さん」をつけることは、私と相手に適切な線を引いてくれるようなおまじないだ。
相手は私とは違うことを感じて考えている人間であり、相手は私と同じ理屈で行動するわけではないということを名前を呼ぶたびに思い出すためのおまじない。私は1つ年下の彼に対して、できるだけ誠実にいられるように、できるだけ理屈を押し付けないように、そしてたくさんの敬意を込めて、さん付けすることにした。

近づきたい思いと、近づきすぎてはいけないという理性が裏腹に立ち上がり、私を葛藤へと誘う。彼の時間は私のものではないし、彼の考え方は私のものではない。同じように、私の時間は彼のものではないし、私の考え方は彼のものではない。まだお付き合いを始めて間もない私たちは、まだ安定したパートナーシップのないままに一緒の時間を過ごそうとしている段階だ。感情のままに何でもかんでも伝えてぶつかり合うという形を取って関係を作る二人もいれば、互いにとって最善の関わり方を探りながら慎重に関係を作る二人もいる。私たちは、どのように関係を、パートナーシップを築いていくのだろう。未だ知らない彼を知った時、私はどんな態度を取るのだろう。未だ知られていない私を彼が知った時、彼はどんなリアクションをするのだろうか。
そんな直近の未来と、関係性が安定した頃の私と彼とを想像して、私の胸が高鳴るのを感じる。複雑で豊潤な私たちの時間が、そして私たちがこれから形作っていく関係が、私と彼にとって居心地のいいものであることを切に願う。私が彼との時間に居心地の良さを覚えたように、彼にも私との時間を過ごしやすい場所だと思ってもらえたらと願う。私が彼をどのように愛して大切に扱うかと、彼が私のことをどのように思って扱うかは、私と彼が他人であることを原因にすれ違う時もあるだろう。だけど、二人で共有する時間が互いにとって素敵な時間になることを祈っている。そうなることを期待することが、彼にとっての心苦しさにならないことを願いながら。

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