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むぎと散歩しながら考えたこと

約3年ぶりにnoteを書きます。
当時、何を思ってnoteを書いていたのか、書こうと思っていたのか…思い出せませんが今回から仕切り直して日々、愛犬のむぎと散歩しながら考えたことを不定期で書いていこうと考えています。

ここであらためて簡単な自己紹介を。

ぼくについて

20代の頃からわりと有名な(?)IT系の会社いくつかで働いた後、30代後半にフリーランスとして独立(今は40代)。
EC,SNS系のマーケティング、広告、企画系の仕事をしたり講師業(社会人向けセミナーや服飾系専門学校での非常勤講師業)をしています。
郊外都市に住んでいるのですが仕事先が色々あるので出張多めです。

むぎについて

豆柴とペキニーズのミックス犬です。齢2歳の男の子。
あまり吠えないのですが、走るのがとんでもなく速いです。
今日は仕切り直し一発目なので、むぎとの出会いについて書きます。

むぎと出会うまで

チャッピーとの出会い

チャッピー

ぼく自身は金魚や亀、昆虫類は飼ったことがあっても犬猫などの小動物はこれまで飼ったことがありませんでした(ちなみに今は“飼う”という表現は好きじゃないです)。

2010年、妻と出会って妻の実家に初めて挨拶に行った時にチャッピーという犬に会いました。
妻の実家では妻が生まれた頃から代々、犬が共に暮らしていました。
チャッピーは二代目の犬であるシェットランドシープドッグのエース(父)と、ご近所の犬との間に産まれたミックス犬です。

帰省時にしか会う機会はありませんがぼくにとって1番身近な犬となったのが、このチャッピーです。
知能の高いシェットランドシープドッグの血を受け継いだ犬らしく、チャッピーは土地勘のないぼくを色んな場所に連れて行ってくれました。
それはまるで「案内してあげようか」と言ってるような気がして、それ以来、ぼくの中で犬=飼うではなく、人間と意思疎通が図れる生き物なのかもしれないと思うようになり、犬を見る目が変わりました。

チャッピーの逝去と父の癌告知

そんなチャッピーも2021年夏、老衰で亡くなりました。
(コロナ禍中だったので)ビデオ通話で見る眠ったチャッピー、火葬されるチャッピー、それを見守る家族と近所の人たち…その光景はまるで人間のお葬式のようで、より一層「ああ、ペット、犬、ではなくて家族、コミュニテイの一員なんだな」と感じました。

そして秋には実父が癌であることを知りました。

ぼくが24歳の頃に母も癌に侵され、その2年後に亡くなってしまったことと、父が一般的には生存確率が低いと言われている類のがんであったことから、それまでは漠然と“いつか”は父だって亡くなる…の“いつか”の距離感がグッと身近に迫った気がしました。

コロナ禍もあって2019年から2020年の年末年始に帰省して以来、父と会ってませんでしたし、父は当時ガラケーだったのでビデオ通話なんかで顔を見るといったこともしていませんでしたが、状況が状況だったので2021年秋〜冬まで実家に帰省して父のそばで生活することにしました。

老いるってなんだろう

一年半以上ぶりに再会した父はなんだかとても老いているような気がしました。
これまでは出張ついでに数ヶ月に一回は会っていたり、長期休みに帰省していたので、老いていく過程を定点観測できていたからこそ違和感を持たなかったのかもしれませんが、一年半ぶりだと久しぶりにあった甥っ子がとても大きくなったように感じるのの逆のような…。

そしてこれを機に父の携帯電話をガラケーからスマホに変えたのですが、スマホやネットの操作に右往左往する父の姿を見ていると余計に父ではなくおじいちゃんになってしまったような老いを感じました…。

そこから漠然と老いるってなんだろうと思うようになりました。

当初は父がスマホに四苦八苦する姿をみて、時代について行けなくなることが老いるってことなのかなと思いましたが、スマホやパソコンを使いこなしている老人だっているし、芸能人や食べ物、場所なんかの流行りに詳しい老人だっているし、見た目が若々しい老人だっています。
反対に若くてもパソコンやネットが苦手だったり、流行りに疎い若者、元気のない若者だっています。
なので、老いるとはそういった類のものではないのかもしれません。

故郷で過ごす秋冬、時間はたっぷりあったので毎日のように…時には父と散歩しました。
季節の変わり目だったということもありますが、散歩しながら日々移ろいで行く風景を見ていて漠然と、老いるとは命が枯れることなのかもしれないと思うようになりました。

故郷の海と空

帰省して過ごしていた頃は秋冬だったので植物が枯れていく様に老いを重ねていましたが、父が手術を終え退院して…その先の風景には、この枯れた遊歩道や近所のお寺の桜が満開になる季節がやってくるんだよなと…思い馳せていたら安直ですが、ただ老いだけがそこにあるのではなく、生きているから老いていくのだし、季節のように命は巡り巡っているというか、循環してるんだよなとも思うようになりました。

生き物に触れたい

この「老いるということはどういうことなんだろう」という気持ちはいつしか、こんなふうに「生きるということはどういうことなんだろう」という気持ちに変わっていきました。

我が家には子供はいないので身近に枯れる以前に成長していく過程が見られる生き物がいません。そこでこれはぼくのエゴですが、犬と一緒に暮らしてみたいと考えるようになりました(猫でもよいのかもしれませんがチャッピーの影響が強かったのだと思います)。

むぎとの出会い

赤ちゃんの頃のむぎ

そんなこんなで、めちゃくちゃ困ってそうな顔の犬、むぎと出会いました。

いざ、むぎを迎え入れると、服は噛んで引っ張るし、う◯ちを食べようとするし、こちらが食事中や催眠中には寂しがってくぅーんくぅーんと鳴きまくるし…自分の要望が通らなかったら腹いせのようにおっしこちびるしで、こちらは気になって目が離せないし寝れないしで育児ノイローゼになりそうでしたが、そんなこんなも数ヶ月で落ち着き、春には落ち着きとてもいい子になりました。

むぎと散歩しながら考えたこと

むぎとの散歩風景

毎日むぎと散歩していて、むぎのペースで歩いて、時々むぎの目線になってみて、より季節や風景の移ろいを感じるようになりました。
本当に毎日何かが枯れては何が咲いたり育ったりしてる。
1日1日、毎日が違う。

他の犬、猫にも目が行くようになるし、地域住民とも会話するようにもなる。
むぎと一緒にいるだけで町の解像度が鮮明になった気がします。

ぼくや妻の言葉をむぎは人語としては理解していないだろうし、吠えないむぎが日々何を思っているのかも正直ぼくらにはわかりませんが、眠そうだな、警戒してそうだなってむぎの表情や仕草はわかるし、むぎのほうもぼくや妻が怒ってると何かを察知して離れるし、映画観て泣いていたら逆に近寄ってくるし。
別々の種族なのに、コミュニケーション、生活は共有できるというか…つかず離れず気遣えあえる相手がいるのはいいなと感じています。

人間同士でも深層心理までは共有したり察することはできませんが、それでも共に生活できているように、種族間の話というより人間でも犬でも猫でも個性を尊重しあえば暮らせるのだな思え、そういう気持ちはぼくとってはとても新鮮です。

1日として同じ景色はないように、犬も同じように見えてもどの犬も個性的で、その個性のぶんだけ人間とのコミュニケーションがあって…そういう暮らしって、これはもう飼い主と犬ではなはく、ひとつ屋根の下で暮らす家族、パートナーなんだよなと思う毎日です。

これから先、むぎも僕もどんなふうに老いていくのかわかりませんが、むぎと散歩しながら考えたことを書いていければいいなと。
ぼくとむぎをよろしくお願いします。