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関東大震災の惨禍からエジプトの詩人が教える日本の本当の安全保障とは?

 もうすぐ9月1日だが、今年は1923年9月1日に関東大震災が発生してからちょうど100年になる。

 古代から高度な文明を発達させたエジプトでは、1882年以降イギリス統治下に置かれたことによって、ヨーロッパ植民地主義に対する人々の反発が強まったことはいうまでもない。その日本がヨーロッパ植民地主義の一角であるロシアに日露戦争(1904~05年)で勝利したことはエジプトでも日本に対する称賛の想いが沸騰した。

 ロンドンでの留学を終えた若き孫文が、帰国の途中スエズ運河を通過するためポート・サイードに立ち寄った際に、5、6人のエジプト人に取り囲まれ、「日露戦争で日本が勝ったらしいが、あなたは日本人か」と尋ねられた。孫文が「残念ながら中国人だ」と答えると、エジプト人たちは、「中国は日本の近くなのだから、どうか日本人に伝えてくれ。我々は、日本がロシアに勝ったことを我がことのように喜んでいると。我々も日本を見習って、植民地主義と戦っていきたいのだ」と語った。これは孫文が1924年に来日し、神戸で「大アジア主義」と題する講演をした際に語っている。


 軍事的な勝利を収めたものの、日本が1923年に関東大震災の大惨禍に遭い、10万人余りの死者・行方不明者を出すと、この関東大震災の惨状を知ったエジプトの詩人アフマド・シャウキー(1886~1932年)は、1926年に「日本の地震」という詩を発表した。

「栄光の頂点にある東洋の帝国は、
その輝かしい威厳ゆえに人々の眼を眩(くら)ませる。
だが陸にあって鎧となる軍隊も、海上を守る艦隊も、
この帝国を〔震災から〕守ることはできなかった。
揺れ騒いだ日の晩にこの国を眺めたら、
人はそれを運命の手中にある小鳩かと思ったことだろう。」

エジプト・ポート・サイード https://www.travelbook.co.jp/topic/54946


 太平洋戦争緒戦における日本のイギリス軍への勝利は、エジプトの人々を奮い立たせることもあったが、この国でも原爆の悲劇を経ながらも経済発展で戦後復興を遂げた日本に対する敬意が生まれていった。1964年にナセル大統領は、「日本に学べ」と演説し、エジプトが日本の経済発展を模範とすべきことを説いた。また、イスラエルと親密な関係にあった米国とは異なり、日本製品はボイコットにほとんど遭うこともなく、エジプト社会に浸透していった。戦後の日本を貫いた「平和」や「民主主義」は、数次にわたる中東戦争や独裁政治を経てきたエジプトの人々にとっては憧憬の的であったことは疑いがない。

 エジプトの近現代史の対日観は、シャウキーの詩のように、国の安全が軍事だけでは保たれるわけではないことや、またナセルの発言のように産業立国としての日本への称賛があり、さらに、中東(パレスチナ)和平に公平な日本に対する信頼があったことを教えている。カイロにオペラハウスをつくったり、日本のアニメやドラマのコンテンツなどが親しまれたりしたように、文化の力も日本に対する良好な感情をつくりあげていった。

 戦前の日本の物理学者、随筆家、俳人の寺田寅彦は、関東大震災後、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れる」などの流言飛語による朝鮮半島出身の人々に対する虐殺について下のように理性的に戒めるように書いている。
「例えば市中の井戸の一割に毒薬を投ずると仮定する。そうして、その井戸水を一人の人間が一度飲んだ時に、その人を殺すか、ひどい目に逢わせるに充分なだけの濃度にその毒薬を混ずるとする。そうした時に果してどれだけの分量の毒薬を要するだろうか。この問題に的確に答えるためには、勿論まず毒薬の種類を仮定した上で、その極量(きょくりょう)を推定し、また一人が一日に飲む水の量や、井戸水の平均全量や、市中の井戸の総数や、そういうものの概略な数値を知らなければならない。しかし、いわゆる科学的常識というものからくる漠然とした概念的の推算をしてみただけでも、それが如何に多大な分量を要するだろうかという想像ぐらいはつくだろうと思われる。」寺田寅彦『流言蜚語』(東京日日新聞1924年9月)

 これと同じようなことは14世紀にペスト(黒死病)が蔓延したヨーロッパでも起こった。ヨーロッパでは、ユダヤ人が井戸に毒を入れたなどという流言飛語が飛び交い、ドイツの交易都市のマインツでは1万人以上のユダヤ人が殺害されたと言われている。関東大震災の日は防災への備えと過去の過ちを決して忘れてはならないことをあらためて教える機会でもある。

朝鮮人追悼碑 西崎雅夫氏撮影



小池都知事は虐殺を認めるべきだろう


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