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自分の文体をつくる その4

 何でもないことをどう書けばいいか悩んでいた私は、内田百閒の随筆を解読していった。
 そこには明らかに他のエッセイなどと違う、異質な戦略(もしくは天賦の才)が垣間見えた。

 その秘密を象徴する一節があった。
 『第二阿房列車』のなかの「春光山陽特別阿房列車」の第一章。
 そもそもタイトルからして意表をついてくる。

「一、面白い筈がない」

 何が面白い筈がないのかというと、これから書く自分の文章が、である。なんとも開き直ったタイトルではないか。

《これからその話をすると云っても、往復何の事故も椿事もなく、汽車が走ったから遠くまで行き着き、又こっちへ走ったから、それに乗っていた私が帰って来ただけの事で、面白い話の種なんかない。それをこれから、ゆっくり話そうと思う》

 続いてさらにこう言い切るのである。

《抑も、話が面白いなぞと云うのが余計な事であって、何でもないに越した事はない》

 いったいこんな始まり方があっていいのだろうか。
 百閒は、なぜ話が面白いことが余計なのか、その理由を書いておらず、真意はわからない。
 ただの屁理屈のようでもあるけれど、何となくわかる気がしなくもない。

 エッセイを書くとき、人はそれを面白くしようとしがちである。もちろん笑えるオチがつく話、心に沁みるエピソードなんかが実際にあればいいが、そうでもないのに、何か書きたいと思って無理やりオチをつくってみたり、人生に関する蘊蓄を書こうとしてしまう傾向がある。

 頼まれてエッセイ教室の講師をやったことがあるが、生徒の人たちが書いてくるエッセイのほぼすべてが、いい話でまとまっていた。なにがしかのエピソードの後に、ちょっとした気づきみたいなことが書かれていて、美しく前向きにまとまっているのである。

 書いてある気づきは、それなりのことが書かれているのだが、読む側からするとあまり心に響かない。どこかで読んだことがあるような内容でもあるうえ、あまりに正論すぎることもあって、ぐいぐい魂に食い込んでくることもない。

 そもそも私を含め、これといって普通の人生しか送ってきていない人間が気づくことなど、本人にとっては一大発見でも、世間的にはたかが知れているのである。ものすごく特異な体験をしたとか、厳しい人生を送ってきた人の言葉には重みもあろうが、私がそんなことを書いたところで、まあ一般的な人生訓の範疇を超えることはできないだろう。
 それを得意げに書いてしまうと、なんとも素人臭いエッセイになるのは目に見えている。
 だからそこは背伸びせず、たいした気づきもないのなら、ないままに、欲をかかずに書き切なければならない。

 そうするとそこにはたいした教訓や発見がないわけだから、エッセイとして成り立たないのではないかという心配が起こる。心配のあまり、何かねじ込んで立派な感じにしたくなる。
 そこが罠なのである。
 何か立派な感じにしようと思っている段階で、すでに素人の域を脱することができなくなっているのである。

 では、どうしたらいいのか。
 百閒はその答えは書いていない。書いていないが、彼の随筆全体がその答えになっているように思われる。

 まず面白いことや役立つことを書こうとしない。
 それどころか私は面白いことを書きませんよ、たいしたこと書いてませんよ、と牽制するような素振りを見せる、その素振りそのものがちょっと面白かったりもするのだが、たいしたことを書かないかわりに、彼が書くのは、あまり人に共感されそうもない自分だけのこだわりである。

「雪解横手阿房列車」のなかに、さらっと出てくる一節。

《肉感の中で一番すがすがしい快感は空腹感である》

 百閒は空腹は快感だという。
 その後とくに理由は説明されないが、読者は、空腹が快感とはいったいどういうことだと思う。
 百閒は人と反対のことを言って、読者を煙に撒こうと思っているわけではなく(実は心の底で多少そういう計算があるにしても)、ただ正直に自分の本音を書いているのだ。
 イマ風に表現するなら、
 空腹っていいよね、
 とでもいう感じだろうか。
 たぶん、本当にそう思っているのだろう。
 わからないこともない。
 空腹のときは、生きている感じがすると言えなくもないし。
 ここでいちいちその説明をしないことも重要だ。説明を始めると逆張りインフルエンサーの主張みたいになってしまう。百閒はそんなことを主張したいわけではなく、ただ空腹が好きなだけだ。
 
 また「特別阿房列車」の冒頭で、旅費がないため人に借りようとする際の言い分が面白い。

《一番いけないのは、必要なお金を借りようとする事である》

 そんな異なことを言い始めたかと思うと、これには説明があり、

《若い時暮らしに困り、借金をしようとしている時、友人がこう云った。だれが君に貸すものか。放蕩したと云うではなし、月給が少くて生活費がかさんだと云うのでは、そんな金を借りたって返せる見込は初めから有りゃせん》 

 と、なるほどと思わせたあと、

《そんなのに比べると、今度の旅費の借金は本筋である。こちらが思いつめていないから、先方だって気がらくで、何となく貸してくれる気がするであろう》

 どこか身勝手な言い草なのだが、読者は妙に納得させられてしまう。

 さらにどうだっていい本音も書く。
 随筆「検校の宴」は、酒が大好きな百閒が、知人の宮城検校と飲みに行くただそれだけの話だが、ロシア語のことや、見覚えがあるけど誰だかわからない人に挨拶したことなど他愛ない話をしたあと、こういう表現をする。

《両側の鍋が煮立って来る音を聞いて、私は益いらいらして来た。早く次の話を饒舌りたい》

 どこか子供じみた、無防備な本音が、読者を微笑ませる。

 どれもこれも何かたいしたことを書いているわけではない。全編を通して読んでも何もすごいことは起こらない。
 けれどこういったこだわりや屁理屈、無邪気な言い回しが、彩りとなって読ませていく。
 たいしたことは書いていないから、最終的に読者の頭にはほとんど何も残るものがないのだが、頭ではなく、胸のなかに、うっすらと小気味よい心地が残る。
 実際内田百閒は当時から名随筆家として名を馳せ、今も多くのファンがいるのである。
 
 とくに役立つ情報も書かれず、深い気づきや人生訓もなく、読後何が書いてあったかほとんど記憶にも残らない。そういうエッセイがあるのだ。
 私は、これは音楽のようなものだと思った。
 心地いいからまた読みたくなる。しかも記憶に残っていないから同じ話を何度でも読める。どんな内容だったかなんていちいち考えない。
 好きな曲は何度でも聴けるものだ。

 こんな文体を身につけたい。
 私は自分のシュノーケル紀行を、こんなふうに書いてみようと考えた。

 つづく


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