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競争しない生き方

前回の投稿に関連して、もう少し考えを深めてみよう。

なぜ、僕が東日本大震災の被災地に移り住んだのかということについては、複数の理由がある。

もちろん被災地の瓦礫の山を見て、情緒的に動かされた面は少なからずあるが、論理的な理由もある。

端的にいうと「そこに仕事があったから」だ。

正確には見た時点で、仕事があったわけではないが、近いうちに仕事が発生するのは明らかだった。

一方、事務所を構えていた鈴鹿のほうでは、リーマンショックがあった2008年以降、建設投資が低迷していた。

要するに仕事が少なかった。

僕の父であり、宮崎建築事務所(当時は有限会社)の所長は、2010年に突然この世を去り、僕が所長(社長)になった。

今でもわかったとは言いがたいが、当時はなおのこと、どうしたら仕事が取れるのかわからなかった。

かつての得意先に営業に回ったり、ホームページやブログを使って宣伝もしてみたが、売り上げは伸びない。

その上、何を考えていたのか新入社員を募集して、しかも、求職者が現れ(それ以降は一度も現れない)、翌年から入社してもらうことになった。

それが今もウチで働いているOさんなのだけど、それはともかく、それまで勤めてくれていたN君に加え、Oさんが増えたので、ますます経営が苦しくなった。

これを言ってしまうと、あまり美しくない話なのであるが、一刻も早く仕事を得る必要があったのだ。

ただ、1つ大きな問題もあって、所員を現地に行かせるのはいろいろな面で無理がある。

僕が現地に行くしかない。

社長がいなくて、会社が運営できるのか、やってみないとわからなかった。

ちょっとした賭けであったことは間違いない。

当時すでにリモートワークが可能になっていたことが証明され、ここまでなんとか両方の仕事ができている。

差し迫った理由もあったにはあったが、そんな経緯もあり、思うところがある。

結果的に、仕事をする環境として、非常に望ましいものであったということだ。

必要とされて働くという経験を、初めてしたと言ってもいいかもしれない。

競争社会において、ライバル会社に勝つことで存続したり、ライバルに勝つことで昇進するということは当たり前だと思っていた。

勝ち組、負け組などという言葉もある。

その発想は、仕事はお金を得るためにするものであるという前提に立っている。

でも、果たしてそうだろうか?

仕事の目的は、他人や社会に役立つことをして、それに相当するだけの、生きるために必要ななにかを返してもらうことであり、お金はそのための単なるツールではないのだろうか。

自分が役にたつことをした分だけ、食べ物を作っている人から、食べ物をわけてもらう、食べ物以外の製品、商品をわけてもらう、サービスを受けるということが本質ではないのか。

お金は、わけてもらうものの割合を、自分で決めるために、数値化したものなのだ。

例えば、給料の1割は食費に使い、3割は住居に使い、残りは衣服や生活を便利にする家電や、消耗品、趣味のためのものや、旅行資金、貯金などに振り分けられるだろう。

お金がなくて、物々交換の社会なら、このように細かく、適正に割合を振り分けられない。

同等の物と物、サービスとサービスを、等価交換すること自体も難しい。

確かに食べていくために…その他、生活を豊かにするために働いて、お金を得るのであるが、そもそも、他人や社会に役立つために働くという思考が、いつの間にか忘れられてはいないだろうか。

そう考えれば、本来は勝ち負けなどはないのだ。

競争が発生するということは、その仕事は必要がないということなのだから、速やかにやめればいいのだ。

その代わり、必要とされることをすればいい。

課題解決という言葉を、よく聞くようになった。

教育の場でも、取り入れられることが増えている。

岩手大学にも「課題解決プログラム」という、ゼミの活動があるし、市内の釜石高校でも課題解決を、授業のテーマにしている。

人間社会には課題がいくらでもある。

お金を本質的にとらえれば、それらを解決すれば、社会から報酬を得られてしかるべきだ。

むしろ、それほど必要のないものを売って、お金をもうけるというのは、本質から外れる。

もっと外れるのは、安い株を買って、高くなってから売ってもうけることだ。

これに至っては、少しも社会貢献にならない。

断っておくが、株式投資やその他の投資ビジネス自体を否定するつもりはない。

しかし、社会貢献や、会社を支援する目的を忘れて、金が増えることだけを考え始めると、本質から外れた金の使い方になってしまう。

目的がお金を得ることになってしまい、社会の役に立っていないのに、お金を得てしまうことになる。

ここから、社会が狂い始める可能性は大いにある。

例えばその1つが、リーマンショックなのだろう。

今回のテーマは投資家を批判することではないので話を戻すと、課題解決のステージにおいては、競争は必要ない。

僕が釜石に移り住んだのも、大きくとらえれば、建築士の不足という課題解決だ。

建築士が不足しているので、特に営業や宣伝をしなくても、仕事はあるし、なによりも必要とされる。

同じように、地方や現代社会の、まだ解決できていない課題や、新たに生ずる課題に取り組めば、競争相手はおらず、しかも必要とされる。

そして、成功すれば、間違いなく社会のためになる。

本質的なお金の性質を考えれば、堂々と報酬を受け取っていいのである。

ただし、現代の社会では、どうやって報酬を受け取るのかという、具体的な方法が確立されていない場合もある。

一般的には公的な資金を受けるか、大企業や一般の人からの寄付を受けるということが考えられる。

NPOや社団法人などの組織は、その代表的なものだ。

また、リノベーションまちづくりに関して言えば、投資した不動産の価値が上がって、家賃収入となったり、価値を付加した建物を転売することによって利益を得たりするなどの方法が考えられるだろう。

投資であっても、この方法ならば、報酬をもらうにふさわしい社会貢献であるように思う。

お金の投資もあれば、労働を投資するという要素もある。

それにしても、無報酬の期間は問題になってくる。

日々の仕事と生活のための支払いに追われる現代の暮らしの中で、資金の先行投資や、労働投資はなかなか難しいものがある。

クラウドファンディングは、その問題を解決する方法の一つだ。

また、公的には、起業型地域おこし協力隊の制度も、その問題を補填するものの一つであろう。

釜石大観音仲見世においても、現在、起業型地域おこし協力隊が、その労働投資の役割を担っている。

リノベーションまちづくりは、空き家や空き店舗の増加、地域の衰退、人口減少など、複数の課題を解決する取り組みだ。

その他に、課題解決をビジネスにする取り組みとして、地球温暖化やエネルギー、資源の再利用などに関するものが、なじみ深いかもしれない。

購買者が、リサイクル商品などを優先して購入する機運があるのも、課題解決や社会貢献への期待からであろう。

これは、お金が本来の目的を果たしている、もしかすると数少ない事例である。

現代の日本の社会では、競争が過熱し「売れる」商品を生み出しても、たちまちにして類似品が生まれ、値段が下がる。

後発の企業が、オリジナルに改良を加え、よりよい商品を作る可能性もある。

そのうちにブームが去って、売れなくなったりする。

投資家は売れるものから売れるものに乗り移って、富を増やす。

このような繰り返しが、未来永劫、持続可能であるとは思えないし、社会貢献の要素があるのかどうかも疑わしい。

本質的でない方法を繰り返せば、システムはエラーを起こす。

そのうちに現在の通貨が機能しなくなる日が来るのではないかと懸念する。

一方で、課題解決は競争ではない。

誰も手をつけられていない課題は山ほどある。

世界全体にもあるし、地域にもある。

競争社会に身を投じなくても、こうした課題解決に取り組むことで、対価を得ることが出来るし、地域や人類の役に立つことも出来るのではないだろうか。

それぞれが、自分の周りのことを少し良くしていくことで、生きるための糧を得ていく。

そのように生きる方法は、すでに存在しているし、これからもっと増えていくだろうと思う。

なぜなら、それが人間社会の本質なのだから。

そして、人間社会には自己修復機能がある。

これからの生き方、仕事の選択は、そのような思想を元に行うことが出来るようになるだろう。

そのためには、柔軟に仕事を変えたり、住むところを変えたりすることも必要かもしれない。

しかし、ライバルを出し抜き、人の財布からお金をかすめとることにしのぎを削るのではなく、人の役に立つことで、豊かに生活することが出来るならば、これほどいい人生はないのではないだろうか。

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