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怒ったら終わりの世の中

映画やドラマを見れば、必ずといっていいほど怒っている人が描かれる。

ドラマ半沢直樹は、登場人物が怒るシーンが見どころというか、名物のようにもなっている。

映画のタイトルを見れば、ランボー怒りの脱出やらマッドマックス怒りのデスロードなど、ハナから「怒り」が入っている。

そもそもアクション映画は、主人公の怒りがないと成立しないのかもしれない。

見たことはないが、検索したところ「シャザム!~神々の怒り~」という映画もあり、どうやら神も怒るようだ(重ねて書くが、映画は見ていない)。

しかし、現実の生活ではどうだろうか。

映画やドラマのように、現実の人が怒って大声を出したり、口論するような光景を見ることはめったにない。

大人になるに従って分かってきた。

映画やドラマは、当たり前だがフィクションなのだ。

仮にノンフィクションをうたっていても、セリフや細かいシーンは、脚本家によって創作されているだろう。

映画やドラマのような感じで、たった一度怒っただけで、誰かとの関係が終わることがある。

昔からこうではなかったと思うのだが、最近は特に顕著のようにも思う。

日本の社会では怒ることが、ご法度のようになっている。

いわば怒ったら終わりの世の中である。

たとえば芸能人や有名人が、一般の人に対して怒ったら、動画が流出して、炎上することもある。

先月ウェザーニュースのお天気お姉さんとして人気だった檜山沙耶に、恋人がいたことが発覚し話題になった。

相手はプロテニスプレイヤーの西岡良仁。

すると、おそらく妬ましく思ったファンの一人が、ある動画を拡散した。

それは、テニスの試合中か直後かに、西岡が怒ってラケットを地面に叩きつけて壊す動画である。

「狂暴だ」「暴力的だ」と動画は炎上し、西岡は批判を浴びることになったらしい。

古い話で恐縮だが、昔ジョン・マッケンローというテニスのトップ選手は、試合に負けたりすると、ラケットを同じように叩き折ったり、ベンチに置いてあるものや、近くにあるものをラケットで叩いて吹っ飛ばしたりすることで有名だった。

当時は「怒りっぽいなー」とも思ったが、テニスプレイヤーというのは、そういうものかと思っていたものである。

西岡選手のように炎上はしていないかった。

インターネットがなかったから、炎上しようもなかったということもあるが。

人間は誰でも怒ることがあるものだと思う。

怒ることが出来なければ、どこで折り合いをつけるのか。

アンガーマネジメントという言葉を聞くようになったのは、この5年ぐらいの間だったと思う。

例えば怒りがわいたときに6秒我慢すると、だんだんとおさまっていくというようなことを教える秘術のようなものだ。

怒りがおさまるまで歩いて、おさまったら棒を置いて帰るというインディアンの秘術も聞いたことがある。

しかし、それで本当に怒りは消えるのだろうか。

喜怒哀楽というのは、人間に備わった感情を表す言葉だが、そもそもなんのためにあるのだろうか。

人間に備わっている本能は、進化の過程で必要だから保持されているものである。

怒るのは人間だけではない。

動物も怒るし、甲殻類や昆虫、魚類なども怒っているように見えることがある。

ではどういう時に怒るのか、ぱっと思いつくのは自分のなわばりや、食べ物、伴侶や子ども(家族)を奪われそうになった時だ。

怒られた相手は、同じように怒ることもあるが、意外に降参して引き下がるケースが多いように思う。

大きい相手に、小さい生き物が怒りを示すことで、大きい相手がすごすごと退散することもある。

大きい相手だって、戦って勝ったとしても、無傷ではいられない可能性があり、戦わずゆずったほうが生存戦略としては正しいということなのではないだろうか。

人間だって、これは同じである。

力の強いほうが、弱い相手に気圧されて、降参することも、なにも珍しいことではない。

怒りは社会を構築するために、必要な一つのツールなのではないだろうか。

人間は相手の気持ちを想像できる生き物ではあるが、100%想像することは不可能で、さらに個人差もある。

全然人のことを考えられないような人も、世の中にはいる。

そういう相手が、自分の権利を侵害してくることがある。

やんわりと言っていても通じない場合は、怒りが有効に働く場合もある。

怒られるというネガティブな体験により、人間の心理はそれを誘発する行動を抑止する方向に働くのである。

怒られるのは、誰だって嫌なのだ。

特に子どもの場合だと、怒られて問題行動を抑止されることは多いだろう。

ところが、最近は子どもが相手でも怒ってはいけないという風潮がある。

子どもは怒られることで、やってはいけないことを学習する側面もあるが、そもそも他人から怒られることに慣れるというプロセスでもあると思う。

怒られなれておらず、必要以上にショックを受けてしまうと、過剰な学習(トラウマ)になりかねないし、恨みを持つことになる可能性もある。

一方、怒りを我慢する側はどうであろうか。

アンガーマネジメントで、その瞬間の怒りは消えるかもしれないが、相手の自分に対するストレスフルな行動は改まらない。

すると、ストレスフルな状況が再現されるたびに、どんどん怒りが蓄積される形となる。

たまりにたまって爆発するということは、ないのだろうか。

怒りが相手に向かうこともあれば、自分に向かうこともあるかもしれない。

いずれにしても、悲劇的な結果を生むだろう。

人間の怒りは本能であり、さらに社会を形成するために、または社会の中で自分の立場を守るために必要なツールであると考えると、抑え込んだりすることは、健全ではないのかもしれないと思う。

また、怒られた相手が、大きいショックのために、一生その人と交流しなくなるというのも、健全ではないように思う。

怒りを抑えることは必要かもしれないが、ある程度、怒りを開放する余地も必要だし、怒られる側の心構えも必要なのではないかと思う。

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