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ひとりと、『あの日、選ばれなかった君へ』

「ひとりと、」シリーズの概要は以下投稿の前書きにて


本を読むとき、小説であれエッセイであれ、登場人物が自分に重なる瞬間がときどきある。そうなってしまうと自分をかえりみる時間が必要で、それが本を読む速度をゆるやかにしていく。その書き手と読み手の共同作業のような時間がたまらなく好きで、だから私はいつも本を読むのが遅い。誰かの書いた本が、私より私を知っている。私に向けて書かれたはずなどないのに、「なんでわかるの?」と問いただしたくなる衝動に駆られる。その高揚をたしなめるようにページをめくり、また私の知らない私に出会っていく。

これこそ読書の醍醐味だよな、と、私しか客のいない居酒屋の片隅で、ひとり悦に浸っていた。平日の深夜、仕事を終えてシャワーを浴びてから、就寝前に少し距離のある居酒屋まで歩き、度数の弱いお酒を飲みながら本を読むのが最近のちょっとした楽しみだった。今年に入ってから読みたい本があまりにも多くなって、シーンによって読む本を替えるようになった。ここ数日は、喫茶店では又吉直樹さんの『月と散文』か土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』、仕事の隙間時間には燃え殻さんの『それでも日々は続くから』、そして就寝前は阿部広太郎さんの『あの日、選ばれなかった君へ』。積読が多いうえに読むのも遅い私は、ようやく最近の本に手をつけたところだった。小説であればひとつの本に集中しないとのめり込めないけれど、エッセイや自伝は並行して読んでも深度は変わらない。そしてそれが魅力のひとつだとも思っている。

『あの日、選ばれなかった君へ』。著者の阿部広太郎さんが、これまでの人生で様々なことから選ばれてこなかった体験を赤裸々に綴るこの本を、深夜にひとり読んでいた。居酒屋にいるからだろうか。ひとりで読んでいるはずなのに、次第に阿部さんとふたりお酒を交わしながら、お互いの身の上話をしているような感覚に陥っていく。普段誰にも言えなかったことや、気づかないふりをしていたこと、無意識下にあった葛藤まで、阿部さんを前に言葉がすらすらとあふれ出てくる。阿部さんは自分の話を交えながら、うまく言語化できずにつっかえる私の感情をコトバ化してくれる。「なんでわかるんですか?」なんて問いただす私をたしなめるように、阿部さんはまたゆっくりと話し始める。

そんな妄想をつらつらと綴ってしまうくらいには、阿部さんの人生に私を重ねて読んでいた。阿部さんの話であるはずなのに、主語が「私」や「僕」ではなく「君(きみ)」で構成されたこの本は、まさに冒頭に述べたような、私より私を知っている本だった。


少し話は逸れるけれど、「大人になってから、なにかに打ち込むということをほとんどしてこなかった」という文章で始まる話を、以前noteに書いたことがある。

(奇しくも阿部広太郎さん主催の「アートとコピー」に参加した際の話である)

私はこれを書いた頃、なにに対しても打ち込めずにいた理由を言語化できずにいた。だからこの記事もその理由には触れていない。けれど、阿部さんの本を読み、当時の私が背を向けていたことに向き合うことができたような気がした。それは単純なことだった。私は大人になるにつれ、選ばれないことに慣れてきて、“まぁしょうがないか”と諦めてしまうことが上手くなっていたのだ。

思い当たる節はいくつもあった。ここに書き連ねてしまったらものすごい量になってしまうので今回は割愛するけれど、振り返れば、選ばれてこなかった人生だった。10代の頃はまだ情熱的だったと思う。でもそのうちだんだんと、“今”を見ようともせずに、明日頑張ろう、次は頑張ろう、そのうち頑張ろうと、選ばれなさそうな物事から逃げて、先延ばしにすることが癖になっていった。まるでまだ始まってもいない人生が、始まってしまうことを恐れているかのように。

もっと大人になったらいいことあるかな、お金も稼いで余裕も生まれて、今はこんなでも将来なんとかなるでしょう。そんな気持ちで現実を見ていなかった私は、次第に自分に甘くなっていったんだと思う。

阿部さんの本は、私より私を知っているけれど、決して私じゃない。苦しみながらも努力の先にあるものをつかみ取っていった阿部さんに、私の軽薄すぎる過去が見透かされているような気がして怖くなった。それでもそれはきっと杞憂で、この本は私のような人間までも見捨てないでいてくれる。

上に載せた記事にも書いた通り、私は約1年半前に阿部さんと同じ(手掛けている仕事内容は全然違うけれど)コピーライター職に転職した。その少し前から私は不安を抱えることが多くなっていた。それは今も続いていて、転職を考えずにいた20代前半(私は今年28になる)の方が、ずっと楽に生きていたと思う。せっかくやりたいことができて、就きたい職に就くことができたのに、そんなことを思ってしまう私はなんて弱い人間なのだろうと思っていた。誰かに不安を打ち明けることも失礼な気がして、ずっとそのモヤモヤとひとりで戦ってきた。そんな私に、阿部さんは自らの人生を持って道を示してくれた。

「不安なのは本気だからだ」
居酒屋の片隅で、聞こえるはずもない声が聞こえてくる。たった一言だけで救われる人がいることを、私は身をもって体感した。何を言うかも大切だけれど、誰が言うかでやはり深度は変わってくるものだなと当たり前のことも思った。でもこれは決して、単なる慰めの言葉じゃない。阿部さんの言葉だけれど、まるで私の底から湧き出た言葉のように、頭で反芻されて私の心に宿っていく。

きっと、そうなんだ。選ばれないことに慣れてしまっていた私が、今は選ばれない度に悔しくて仕方ない。その度に苦しくなってやけ酒をして、そしてまた選ばれないかもしれない何かに立ち向かう。私はそうやってだんだんと、「悔しい」という喜び方を知っていったのだと、阿部さんの本を読んで改めて気づかされた。


どのくらい時間を費やしただろう。何度も自分をかえりみながら、日を跨いでゆっくりと読んでいた『あの日、選ばれなかった君へ』を、ついに読み終えた。その余韻のままグラスの水滴をぼーっと見つめていると、「しげちゃんそろそろ」という店主の言葉で我に返る。壁にかけられた時計を見ると、閉店時間を少し越えていた。本の世界にいる私には声をかけず、現実世界に戻るタイミングをうかがってくれていた店主に詫びとお礼を伝えて会計を済ませた。店を出ると、アルコールを含み赤らんだ顔に夜風がやさしくあたる。下を向いて歩くことの多い私が、珍しく前を向いていることを夜風のさわり心地に気づかされた。こんなにも深い夜に、ひとり前を向きしっかりとした足取りで歩く人間は、はたして私の他にいるだろうか。



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