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火葬場で迎えた、28度目の誕生日


酸素の管を外し、弱々しくビールを飲む伯父の口元が、しばらく経った今も目に焼き付いている。俺はずっと焼肉が食べたかったんだと気丈に、そして寂しそうに微笑む伯父の表情を、これを書いている今でも昨日のことのように思い出す。どうせもうじき死ぬんだから好きにさせてくれと吐き捨てるかのように、半ば強引にビールと焼肉を嗜む姿を、伯父の弟である私の父や、母である私の祖母が時折切なそうに見つめていたあの表情を、どうしてかずっと忘れたくないと思っている。
 
これは、もうじき四十九日を迎える伯母(父方の伯父の奥さん)の火葬後の話。そしてその翌週に、伯父が亡くなった。ふたりとも、ステージ4の癌患者だった。



 

火葬場で、私は伯母の顔を初めて見た。正確には、記憶のかぎりでは初めて。私にとっての初対面は亡骸の姿で、その数十分後にはその遺骨を骨壺に納めていた。伯母には身寄りがなく、伯父夫婦に子どもはいなかった。父と母と姉と私、祖母(父方の祖父の存在を私は知らない)、そして伯父とその友人の計7人の、それはそれは静かなお別れの儀だった。私は火葬前から収骨まで、伯父にも伯母にも、どう声をかければいいのかわからなかった。だから伯父の車椅子を押すことに専念して、対面することから逃げていた。

伯父は声をあげることが難しいのか、静かに鼻を啜りながらぼそぼそと聞き取れない言葉をずっと発している。唯一来ていた伯父の友人はほとんど無言で、だけれど時折声を上ずらせている。火葬場には、そのふたりの声と、感情を殺したスタッフの声だけが静かに響いていた。
 
伯父とは、その数週間前に家族総出で会っていた。その日は、入院から一時退院した伯父の買い物を手伝う日だった。伯父と会うのも、物心がついてからは片手で数えられる程度で、弟である父や母である祖母からは、時折伯父の話になる度に「荒くれ者でだらしない男だった」という話を聞いていた。会う回数よりも話を聞く回数の方が多かったからか、私の記憶のかぎりでは背が高くて恰幅も良く、怖そうな出で立ちで自信に満ち溢れている印象が強かった。だから久しぶりに会った時、弱々しい表情と背中の丸まった姿を見て、その人を伯父だと認識することに時間がかかった。
 
伯父について一番覚えているのは、顔をしわくちゃにして大きく口を開け、ガタガタの歯を見せながら笑う姿だ。その記憶が強いから、その日の伯父の控え目な素振りにはやはり少し寂しくなった。けれど私はあくまで気丈に、何も変わっていないように振舞った。それでも、目を合わせることはできなかった。買い物が終わり別れる間際、伯父は多分私の目を見てくれていたと思う。けれど私は、笑顔をつくりながら最後まで遠くを見つめていた。伯父と甥という関係性のもとに、私はその日笑顔をつくっていただけなのだった。
 
伯母の亡骸とともに火葬場にきた伯父はさらに背中が丸まっていて、ほんの数週間前のその記憶よりもずっとずっと小さく見えた。静かな儀の後、伯父は唯一来ていた友人に向かって「一杯いかないか」と細い声で言った。「このまま家には帰れない」、と。「付き合うよ」と返す友人の言葉に伯父は安堵し、「焼肉でいいか?」と聞くと、友人は「大丈夫か?」と笑った。ふたりは古くからの友人同士で、今夜はふたりで色々話したいんだと思った。でもそれは間違いで、伯父は私たちにも来てほしいようだった。それは、伯父が何回も私たちの方を見て、できる限り声を振り絞り、みんなに聞こえるように話しているのを見て悟った。伯父の友人も恐らく悟って、「店の場所わかる?」と聞いてきた。私たちは無言で頷く。伯父は少し声を上ずらせながら「商店街のとこな」と言った。そうして、伯母を見送った7人全員で、焼肉を食べることになった。

伯父の友人もいたけれど、伯父と家族と祖母が揃って食事をしたのは恐らくこの日が初めてだ。冒頭に書いた通り、伯父はステージ4の癌患者だった。それなのに伯父は、ゆっくり、おいしそうにビールと焼肉を嗜んでいた。伯母は生前、中華が好物で焼肉は食べたがらなかったようで、伯父もそこに合わせて中華ばかり食べていたらしい。伯父はそんな話を時折ゆっくり口にし、私はそれっぽい相槌をうつものの何と返せばいいのか分からないから肉を焼くのに集中した。不意に「うまいか」と伯父に聞かれ、「うんまい」と返す。「俺も焼肉久しぶりだからうれしいよ」と添えて。そうしてすぐに、私は伯父に似ているのかもしれないと思った。
 
食事を終えて、一時退院中の伯父を家に送り別れる。その後、家族と解散してすぐに、知らない電話番号から着信が入った。出てみると、スマホ越しに伯父の声が聞こえてきた。「今日は来てくれてありがとう。一緒にご飯食べられて本当に嬉しかった。ほんとはもっと話したかったんだ」そう言われた。別れる前に、翌週からまた入院すると聞いていたので、「お見舞いしに行くから病院教えて。その時またゆっくり話そう」そう私は返した。伯父は嬉しそうに、「ありがとう」と言い、病院の名前を言った。何度か聞き返したけれど、聞き取れなかった。行く時に家族に聞けばいいかと思い、「わかった」と答えた。「絶対行くね」と添えて、電話を切った。その一週間後に、伯父は亡くなった。入院する予定だった日に、伯父はひとり自室で息を引き取った。
 
その二日後、伯父の友人が経営する葬儀場で、通夜は執り行われた。そこには、伯父の古くからの友人が想像以上にたくさん集まっていた。私の勝手な印象で、伯父は孤独になってしまったのだと思っていたから、その人の多さに少なからず驚いた。伯母の件の日、私は火葬場からしか出席しなかったからわからなかったけれど、実際通夜には同じくらい多くの友人が参列していたらしい。

伯父の通夜に参列した友人たちはみんな口をそろえて、こうちゃん(伯父)は良い男だったと言っていた。やさしくて誰からも愛される男だったと、涙ぐみながら口にしていた。友人らの話を聞くたびに、私の知らない伯父の一面がどんどん増えていった。

学生時代柔道で大活躍していたこと。悪い友人とつるんだりもしていたけれど、非行に走ることはなく、成績優秀な同級生にも慕われていたこと。義理堅く誰かがしんどい時は率先して相談に乗っていたこと。友人の子どもたちに対してまるで親戚のように親しく、やさしく関わっていたこと。「姪と甥と一緒に酒を飲みたい」と時折切なそうに呟いていたこと。伯父は伯父なりに不器用ながら、”地元”という小さなコミュニティの中で精一杯の愛情を持って人と接していた事実と、私は惜しくも伯父の亡骸のそばで対面した。

いたたまれない心持ちの中、外にある喫煙所で遠くに打ち上がる足立の花火を眺めていると、伯父の友人が隣に立ち、懐かしむように目を細めて言った。「あの花火、うちから近くてね。よくこうちゃんたちを招いて酒飲みながら見ていたよ。あいつ、酔っぱらいながら花火見ると絶対泣くんだよ。でかい図体なのに繊細でな、かわいい奴だった」
 
喫煙所から戻ると、伯母の火葬場にも来ていた友人の奥さんが、Bluetoothスピーカーを抱えながら祖母に泣きついて言った。「この曲、こうちゃんの十八番で。いつも歌ってて、すっごく上手だったんです」そう泣き喚きながら場内に大きく鳴り響かせていたその曲は、徳永英明の『レイニーブルー』。私もスナックで必ず歌い、よく褒められる曲だった。
 
涙腺が弱くて、『レイニーブルー』が十八番の伯父。私はやっぱり、人生で数回しか会ったことのない彼に似ていたのだと思った。そのことを、伯父の死後に知ることになってしまったこと。伯父の『レイニーブルー』を聴くことがこの先一生できないこと。伯父の生き様や心根を、今後は人を介してしか知ることができないこと。人とのつながりを大切に生きてきたつもりだったのに、伯父とのかかわりに対してはどこか消極的だった自分の無情さと対峙した私は、翌日ただ静かに、伯父の亡骸に花を添えていた。伯父が火葬場で焼かれたその日、私は28度目の誕生日を迎えた。

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