「沈黙」

ロドリゴの辛く悲しい闘いの記録。朝の南北線で何度涙を流したことか…。
題材は、江戸初期のキリシタン禁制下における司祭と隠れキリシタン達の苦悩と信仰。でも、物語を通して頭に浮かぶのはそれそのものじゃなくて、もっと形而上的なもの。
それは、読み手によって異文化共存だったり伝道とは何かだったり、グローバル化の障害だったり、信仰だったり、かなり多数の"読み"ができると思う。

今回は"信念を貫く"ということについて、ロドリゴを通して色々と考えさせられた。

信念を貫くことは"良いこと"とされている。でも、平時においてでもそれは簡単じゃないし、そもそもどっからどこまでが己の信念なのか?とか、貫くということは、全く1mmも変えないってことなのか?とか、突き詰めると難しい。だって1mmの変化を許したら、それはいつか大きな変化になる。

さらに、その"信念"が、社会の"通念"と相反するものだった場合、一体どこまで貫くことができるのか。あるいは貫く必要は果たしてあるのか。
信念を貫かなければ目標や願望や任務は達成できない。でも、そこに、信念を貫くことによって人を傷つけることになったら?
沈黙のような状況じゃなくても、信念を貫くということは、他人を傷つける可能性を孕んでいると思う。そこで貫き通すも曲げるも自由だし、どっちがいいとか悪いとかではなく、ただ言えるのは信念を貫くにせよ、曲げるにせよ、強さがないとそこで人間はダメになる(広い意味での死)。 そして、その"信念"というものは、社会とか所属している組織とかによって生まれるものではなくて(それによって生まれるものは信念とは呼べない)、自分の中から湧き出るものだと思う。だからこそ、それを貫いたり、変化させたりするのはかなり孤独な闘いになる。

タイトルの『沈黙』というのは、作中では神の沈黙として何度も出てくるけれど、それは自分で見出した自分の信念を貫くときには、誰も助けてくれない、神でさえ助言や励ましはくれない、ということなのかなぁ。
本当に支えとなるのは、励ましや助言ではなくて、共感や信念の共有なんだ、てことを神とフェレイラがロドリゴに気づかせているように読めた。
ロドリゴにとってのイエスは、踏み絵のイエスではなくてフェレイラだったんじゃないかな。

中学2年〜高校2年ぐらいの時期が初読適齢期だと思う。人と自分が違うことに怖さを感じてる人に読ませたい。

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