文字を持たなかった昭和367 ハウスキュウリ(16)部活

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べており、労働力としての当時の家族構成から、苗の植えつけ手入れの概要収穫の様子など、そして商品価値についても述べた。
 
 さて、突然だが部活である。

 昭和53(1978)年の春を迎え、長男の和明(兄)は就職先の宿舎に移った。二三四(わたし)は電車――当時鹿児島では汽車と言っていたが――で20分ほど、ドアツードアでは小一時間かかる県立高校の普通科に通い始めた。春休み前からこのかた、キュウリの収穫は絶え間なく続いていた。

 キュウリも忙しいが、この時期ミヨ子をはじめ家族の頭を悩ませたのが、姑のハル(祖母)の状態だった。ハルは体が弱り始めてから半年ぐらい経ち、ほとんど寝たきりになっていた。食事や排泄の世話は一日何回も、毎日続く。二三四もできる範囲で介護――当時はこんな言葉はなかったが――していた。

 学校から帰ると、二夫(つぎお。父)はもちろん、ミヨ子もまだ帰っておらず、とりあえず座敷に寝ているハルの様子を見て、おむつを換えたりぬるめに入れたお茶を飲ませたりする日が続いた。おむつと言っても、大人向けの紙おむつが世に出るのはもっとあと、パンツタイプに至っては平成に入ってからのことである。

 高校入学後、二三四はある部活への誘いを受けた。詳しくはいずれ書くかもしれないが、体育系の、それまで経験したことのない競技だった。
「二三四さんは体が柔かいから合うと思うよ」
体育の教師で、当時その競技で県内の上位に入賞者を出していた部活の顧問から直々に声をかけられたのだった。

 2週間ほど、慣れない基礎練習に打ちこみ、少しずつ体が慣れていくのを自分でも感じ始めていたある日。部活で暗くなってから帰った二三四に、二夫が言った。
「部活はやめないか。仕事が終わって真っ暗なままの家に帰って、それから飯の支度をするのでは、母ちゃんもかわいそうだ。明るいうちに帰って、夕飯の準備をして、あとは勉強すればいいだろう」

 どうしてもやってみたかった競技ではなかったが、これからという時にやめるのは、やはり残念だった。しかし、家の中が「回らなくなっている」のは明らかだった。

 ハルが粗相した匂いがなんとなく漂う家の中で、二三四は「わかった」と答えるしかなかった。

《参考》
一般社団法人 日本衛生材料工業連合会 | 紙おむつ

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