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顔を覚えている男の話8

彼は大学の同じサークルの先輩だった。私が入学した時点で、彼はすでに大学の院生だった。

結論から言うと、私は彼の浮気相手だった。彼には結婚を約束した彼女がいた。

サークルの活動や飲み会に参加する度、彼と関わる時間が多かった。グループ分けで一緒になったり、大人数で飲んでいても彼と私はいつも近くにいた。

彼は背はあまり高くなかったけれど、はっきりした目鼻立ちをしていて、鼻がとても高かった。

甘い言葉を発したり女の子をすぐに口説いたりするようなタイプではなく、何か近寄りがたいような不思議な雰囲気があった。頭が良いのでサークルでも中心的な存在で、たくさんの人が彼のことを慕っていた。

私も彼が気になっていたけど、彼も私のことを気にしていたのは態度でわかった。でも、噂話で彼には長く付き合っている彼女がいるのも知っていた。

若い私は、自分のタイプの男性には「ご飯にいきたい」「ドライブにいきたい」などというような軽い女だった。
彼は私にそういわれて別に返事もしないけど、嫌な感じがしていないようだった。

ある日、サークルのミーティングの後、彼はいつも通り車で後輩たちを送ってくれた。彼が運転する車には、私以外にも3人が乗っていた。

学校から私の家が一番近かったので、いつもなら私を先に送ってくれるのに、その日彼はなぜか家が遠い後輩から送っていった。

私以外の3人を家に送り届けた後、彼は言った。「少しドライブしようか」

私にはこの言葉がとにかくロマンチックで、彼がとてもかっこよくみえた。私がいつもお願いしていたことを、覚えていてくれたことにもキュンとしたのを覚えている。

「うん!」笑顔で私は答えた。

彼は慣れた手つきで車のハンドルを操作して、海岸沿いの道に向かって運転をはじめた。防波堤から海が見える場所に彼が車を停めたので、二人で車を降りた。

夜の海は暗くて何も見えないけど、海の向こう側に街の灯りが見えてとてもロマンチックだった。彼が夜景を見せてくれるなんて思いもしなかった。

ドキドキして、横にいる彼にこともあまり見れなかったし、彼と何を話したかあまり覚えていない。

その日から私は彼の家に遊びに行くようになった。「遊ぼう」とメールをすると、「家にいる」と返信が来る。いつの間にか私は二人きりのときは敬語を使わずに話していた。

うきうきで家にいくと、彼はいつも勉強をしていた。自炊したあとの洗い物が残ったキッチン、起きたままの状態のベッド、室内干しされた洗濯物。でも、一人暮らしの男性の部屋にしては、綺麗にしていたと思う。

彼とはたくさん話すわけでも、何かを語り合うわけでもなかった。私がただ彼といたかった。別に伝えたいことも話したいこともなかった。

私と彼が一線を越えたのは、何回か私が彼の家に遊びにいった日だった。温かい風が吹き、太陽の日差しを感じられる日だった。

相変わらず勉強ばかりしている彼の横で、私は彼のベッドで昼寝をしていた。何時間経ったのかわからない。
はっと気づいて起きた時、彼は私の上に覆いかぶさって私の耳にキスをしていた。

拒否するでも嫌がるわけでもなく、私は彼をそのまま受け入れた。彼に大切な彼女がいることも知っていた。
でも、私は彼に求められるまま、彼の体温を全身で感じていた。

しばらく二人でベッドでゆっくりしていると、彼は17時になったら彼女に電話しなければいけないといった。
遠距離の彼女とは毎日決まった時間に電話する約束があるらしい。

私が彼の部屋を出ていけばいいのに、なぜか彼が部屋を出て彼女と電話をはじめた。私がシャワーを浴びていると、電話を終えた彼が裸で入ってきた。

そして、また彼は私を求めてきた。彼は避妊をしなかった。そのつもりがなかったのか、用意がなかったのはわからない。

出しっぱなしのシャワーが湯気を立てて流れ続けている。私と彼は狭い浴室で求め合っていた。
彼とセックスをしたのはこの日の2回だけだった。

その後、彼の家に行くこともあったけど、彼はこの日以来私を抱くことはなかった。

彼の彼女は中学か高校で出会った幼馴染で、その頃からずっと付き合っているといった。結婚を約束していて、彼が卒業したら結婚する予定だと聞いた。

彼の彼女は医者になる予定なので、彼は彼女に養ってもらうのだとも話していた。あの頃には珍しい考えだと思ったけど、彼女が稼ぎ、彼が家庭を支える予定だといっていた。

彼と関係を持って1ヶ月かそれより少し経った頃、生理が遅れていることにふと気づいた。

普段あまり遅れることがなかったのでとても不安だった。怖かったので、彼に「会いたい」と連絡した。

彼は地元に帰る前で、とても忙しいといっていた。卒業と結婚の準備で忙しいらしい。
用事を済ませる前に少しだけ会えるといって、私の家の駐車場まできてくれた。

生理が遅れているというと、当たり前のように彼は困った顔をした。さらに、どうしても行かないといけないところがあるから今夜は一緒にいられない。ごめん。といった。

彼の答えは、この言葉に全て出ていると思った。

私は妊娠したら困る相手で、私は用事をキャンセルしてまで一緒にいたい相手ではなくて、ちょっとした火遊びに興味があっただけで、私は浮気相手。

気づいていないつもりだったけど、私はやはり彼のことが好きだったのだと思う。この夜は不安で悲しくて、涙がとまらなかった。

浮気だとわかっていたのに、それでも良いと思っていたのに、やっぱり私は彼が好きだった。

全部を捨てて私と一緒にいてくれるなんて、そんな都合の良いことはなかった。妊娠したかも、という言葉で彼女から奪おうなんて思ってしまう悪い女だった。

彼のことを考えて泣き続けた翌日の朝、生理がきた。

それから彼は予定通り、卒業に向けて準備を進めていた。
あの騒動の後も何度か二人で会ったし、二人でドライブにも行った。

でも、あれからは抱き合うこともキスをすることもなかった。終わりまでの時間はお互いわかっていて、なんとなく感情をぶつけることは避けていた。私が気持ちを伝えることも、気持ちを伝え合うこともしなかった。

そして、彼が地元へ旅立つ日になった。
彼を慕っていた後輩メンバーで、彼を空港まで見送りにいくことになっていた。

私たちの関係はもちろん周囲には秘密だったので、仲が良かった後輩の一人という立ち位置で見送りに行った。

彼を見送りにいくと、なぜか彼は彼女と一緒にいた。
彼の横に立つ彼女は美人ではないけど、すらっとした体型をしていて、見るからに頭が良さそうだった。私にないものを全て持っている気がした。

彼女は彼の引っ越しの準備を手伝いにこっちに来ていて、準備が終わったら2人で一緒に地元に帰るという予定となっていたらしい。

彼女の横に立つ彼は、私に会う時とは全く違う顔をしていた。背筋をのばしていて、私と話す時とはまるで別人だった。

彼のために集まった数十人と、彼と、彼の彼女で写真を撮った。
私はどんな顔をしていたのか覚えていない。笑っていたつもりだったけど、心の中は泣いていたから私は悲しい顔をしていたかもしれない。

そのまま彼は彼女と一緒に、空港の搭乗口に入っていった。
最後まで、彼と目は合わなかった。

彼はそのあと例の彼女と結婚し、2人の子供を作り、彼女は予定通り医者になった。

彼は家事全般をしていて、その後も家事をしながら私に連絡をしてくることがあった。今赤ちゃんのオムツを変えているといいながら、スピーカーフォンにして電話をしてくる。

私は電話越しに、彼の子供の名前を呼んだ。受話器越しに、彼の赤ちゃんが発する可愛い声が聞こえる。

もし、あの日、あのまま生理が来なかったら。
一瞬そんなことを考えたけど、やめた。

私たちは何も始まっていなかった。だから終わってもいないし、続くこともなかった。
私は彼にも、彼の子供に選ばれることもなくて、私は彼にとってただの浮気相手だった。

でも、
「ドライブしようか」と言ってくれた瞬間、
耳にキスをしてくれた瞬間、
泣きそうな顔でごめんといった瞬間、

その一瞬は彼が私のことだけを考えてくれていたと私は今も信じている。

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