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言葉や文化の違いがあっても一緒に楽しめるのがサッカー

息子が小学生の頃だから、もうすでに4年ほど前のこと。
息子が友達とサッカーをしていた公園で、3人の外国人の方から声をかけられる。一緒にサッカーやろう、というようなことを。
(言われたのは息子なので、本人がよく分かっていない(笑))

実は、この公園では違う時にも外国人親子に声をかけられた。一緒にサッカーしようよ、と。
(そして息子はやっぱり何と言われたかわかっていない。)

公園でサッカーボールを蹴っている、ということは、世界共通で「一緒にサッカーをやろう」に繋がるのかもしれない。

息子ははっきり言ってコミュ障だ。でも彼は言葉が無くてもコミュニケーションがとれる。それがサッカー。
そこには「ボールを使って〇〇をやろう」なんて会話はない。
人数がいるわけではないからゲームをするわけでもない。離れて見ているこちらも、今から何をし始めるのか想像もつかない。
それでも自然に鳥かごがはじまる。それもとても楽しそうに。

そして、そろそろ終わりにしよう、という時が来るまで、自分が誰か、どこ出身なのか、そんな話は一切出てこない。(二度目のケースはそんな会話もなかったように思われる。つまりそんなことは無くても楽しめるんだ。)


一緒に楽しんでくれてありがとう、どちら出身ですか?


聞いたのは母。3人とも違う国の人だったけれど、二人の出身国は覚えていない。なぜなら、一人の言葉がとても印象に残ったから。

「ヨーロッパ出身だよ」

学生の頃、アジアを旅して出会った西洋人も、ヨーロッパで出会ったひとたちも、自分の国を名乗らないことがなかった。むしろ、それがコミュニケーションのはじまりのような気がしていた。だから私は彼に「出身国は?」と聞いた。そうしたら「コソボだよ」と言った。

それ以上の会話はしなかったけれど、すごく心に残っていた。

その話を思い出したのは、ワールドカップのスイス対セルビア戦でのゴールパフォーマンスが物議を醸している、というニュースを知ったから。

出身や言語、宗教や文化が違っていても同じルールの上で戦えるのがサッカー。
政治的なものを抱えて思うことがあったとしても、それを無しにして同じフィールドで戦えるのがサッカー。

このパフォーマンスが良いのか悪いのか、はFIFAがジャッジするでしょう。でも、フェアなフィールドの上にいろんな世界を抱えていることを知って、それを家族で話す場でもあるワールドカップ。

ワールドカップから学ぶことって本当に深い。


雑記ブログでもちょっとサッカーのこと書きました。盛り上がっている「半端ないって」から思ったこと。こちらも宜しければ読んでくださいね。






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