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アートと儚い恋

高校を卒業する頃になっても、
特に夢も、目標も、したい事も、無かった。


母の薦めで入った、規則がとても厳しい女子校を卒業し、そのままエレベーター式に、同じ学校の短大の英文科に入学した。


勉強にもスポーツにも興味が無く、
趣味も無かった。


1970年が終わろうとする頃、世の中は静かだった。


若者は学生運動するほどの情熱もなく、
政治にも、日本という国にも興味が無かった。


テクノ・ポップが誕生する1980年代は、まだ先だった。


イェローマジックオーケストラは結成したばかりで、巷ではピンクレディーやキャンディーズがビルボードを賑わせていた。


無関心。


そんな時代だった。


アルバイトは楽しかった。


今でも在るのだろうか?
新宿の「タカノ·フルーツパーラー」の6階の
「ワールドレストラン」で働いていた。


数カ国の食事が一か所で楽しめ、それぞれの国から来たシェフと英語で話すのが楽しかった。


様々な国籍のお客と対応する機会も多く、英語を勉強するには最高の環境だった。


そこでアルバイトしていた、北海道出身の同年代の浪人生と恋におちた。


彼は美大を目指していた。


それまで、東京の人しか知らなかった私は、
何かを目指して、上京して、
必死で夢に向かっているその人が眩しかった。


二人共、西武新宿線沿線に住んでいたので、
バイトが終わると、一緒に帰った。


駅までの道でも、電車の中でも、
おしゃべりに夢中だった。
というより、彼が一方的に話すのを、
私が聴いていた。


夢のある人は、饒舌だ。


ゴッホが大好きで、
印象派の芸術家について
いつまでも、熱く語っていた。


当時、彼は、
棟方志功の「わたばゴッホになる」
という本を読んでいたのを
今でも覚えている。


彼に勧められて聴いた、
キース・ジャレットの「ケルン」は
今でも私のお気に入りのアルバムだ。



故郷のある人は、
本当の居場所について語るのが上手だ。


東京出身の私には、東京以外に居場所は無かった。
なんだか、ハズレくじをひいたように感じた。

それ以上に、夢のない私が虚しかった。


彼との恋は儚く終わった。

私に大きなインパクトを残したまま…


それから私は、
芸術についての本を読み漁り
版画家、池田満寿夫に夢中になる。
彼の小説「エーゲ海に捧ぐ」が芥川賞をとり
彼の自伝の中に書かれたニューヨークに憧れる。


そして、間もなくして、
私は、
自分の居場所を探して
夢を探して
ニューヨークに飛び立った。


どの街に住んでも、
必ず美術館に通い、印象派の絵にに見入る。
印象派の絵を見ると、
あの頃の自分が、
私の眼の前を通り過ぎるように感じる。


あの頃の私に伝えたい、
私の夢も
私の居場所も
今、ここに
すぐ足元に、在るんだよ、と。







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