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写真の向こう側

駅前を抜けたら線路の横をしばらく走る。
駐輪場に自転車を停めて校門に入ると、十メートルほど前を若宮徹が歩いているのが見えた。
私は駆け寄って行って、その肩をぽんと叩く。
「おはよー」
徹は一瞬驚いた顔をして、それからすぐにいつもの優しい笑顔になった。
「おはよう須川、朝から元気だなぁ」
「まーね。徹は元気ないね」
「ん、俺はテイケツアツ」
「ふーん」
寝起きの悪い人はよく低血圧と言うけれど、本当に血圧を測って言ってんのでしょーか。と思ってももちろんそんなことは突っ込まない。
「ところで須川、昨日のドラマ撮った?」
「えー、忘れたよ」
「まじかよー?期待してたのに」
「なんだ、電話してくれたらすぐ撮ったのに。メールでも」
なんてことだ。一本連絡さえくれたらすぐに撮った。
私はこっそりと歯噛みした。
そうだ、なんとしてでも撮ったのに。

生まれたときから幼馴染だった若宮徹は、三ヶ月前から私の彼氏になった。
私は小さな頃からずっと徹が好きで好きで。親友の振りをして彼の隣で過ごしながら、この日が来るのをどんなに待ち望んだことか。
嫉妬で焼け付きそうになりながら恋の相談に乗り、失恋を慰めなどして、ようやく手に入れた恋人の座だ。
徹と肩を小突きあいながら鼻歌でも歌いたい気分で教室に入ると、窓際の席に三浦さんが座っているのが目に付いた。
顔色が悪い。彼女も低血圧で、おまけによく貧血を起している。
いや、彼女も低血圧、ではなくて、低血圧なのは彼女。彼女の口癖だ。
三浦さんはさらっさらのセミロングで顔を隠すように俯いている。もともと腰が折れそうなくらい細いから、つい支えてあげたくなる。
女から見ても心配になるほど果敢な気なのだから、男なら誰でも彼女を守りたいと思うに違いない。
「三浦、今日も具合悪そーだなー」
当然のことながら、彼女の姿は徹の目にも入ったらしい。心配そうな声で、そう言った。
「うん。そーだね」
私は、声の感情を殺す。
徹の目が彼女を追っている。
まだ別れて三ヶ月だ。気になるのも仕方ない。
―――でも、私は徹のそんな仕草も気になりません。
用意された台本を読むように、頭の中で私は呟く。
「須川は、元気だもんな」
「うん、そうだね。農家の娘だから」
微笑んだ。
鈍感で、頑丈な女に見えますように。

三浦さんが徹と別れたのは三ヶ月前、彼女に新しい恋人が出来たからだ。
しかもしばらくは二股状態で、こっそり二人の男の価値を両天秤に掛けて計り比べていたのだ。
と、それは彼等を知る人なら誰もが知っていることだけれど、当然徹だって知っていることだけれど、誰も口に出して彼女を責めたりはしない。
実際に徹が振られたときには、なぜか三浦さんの方が泣いたらしい。私はあなたに相応しくないとか、若宮くんが分からないとか言われたそうだ。
俺はこんなに三浦のこと思ってんのになあ。
バカ正直にもその言葉を信じて、そう呟いて徹は泣いた。どうせ泣くなら三浦さんの前で泣けば良いのに。
恰好つけて身を引くなんてバカなことしないで、もっと彼女を困らせてやれば良かったのだ。
自分の浮気を棚に上げ、人に罪をなすり付けて別れようとする三浦さんの卑怯さにはむかついたが、その反面で私は喜んだ。チャンスだ、付け入るなら今だと思ったのだ。
「泣かないでよ」
嗚咽する徹を抱き締め、その頬に私は自らの胸の膨らみを押し付けた。
私はそれまでずいぶん長いこと徹の親友を演じてきたので、彼も始めは戸惑っていたようだった。
しかし辛抱強く、慈しむように頭を撫でていると、やがて徹の腕はゆっくりと私の背中に回された。
徹がそのまま私を抱いたのは、振られて、自暴自棄になっていただけなのかも知れない。
私は処女だった。ずっと前から、初めては絶対に徹にあげるつもりだったのだ。
事が済んだあと彼は明らかに後悔した顔をしたけれど、私は気にならなかった。ならなかったはずだ。私は鈍感で、頑丈な女なのだから。
徹が私に付き合おうと言ってくれたのは次の日のことだ。
私には、それが同情でも責任でもなんでも良かった。どんな理由であれ、とにかく徹がやっと私のものになったのだ。
だから、あれから三ヶ月、私たちはあれ以来一度もセックスしてないけれど、キスすらしてないけれど、別に気にはならない。私たちが付き合っているという事実がそこにあればそれでいい。
私は頑丈な女なのだ。

百万ドルの夜景。
香港の夜を、そう呼ぶそうだ。
百万ドルっていくらなのかわからないけど、とにかくもの凄く価値があるってことらしい。
その街並みを彩る看板は私のよく知る漢字なのに、音として読めないのだから不思議だ。現実なのに、現実感がない。
他の国の人が日本を見てもそう思うのかな。
いや、よく考えたら私にはアメリカもイギリスも、または中国も韓国も見分けがつかないわけだから、外国の人が見たら日本と香港も見分けがつかないのかもしれない。
知らない場所のことは解らない。知りたいと思わなければ知ることもないだろう。
そんなことを考えながらぼんやりと写真集を眺めていると、遠くで五時のチャイムが鳴るのが聞こえた。
徹は野球部だから、放課後練習があって一緒には帰れない。
三浦さんは吹奏楽部。関係ないけど。
私は、ぱたんと写真集を閉じる。その写真集は香港の街並みを写したもので、本棚には他にもいろいろな国や景色や、ときには女性ばかりを写した写真集などが沢山並んでいる。
私は香港の写真集を本棚に戻し、氷が溶けて薄くなったレモンジュースを飲み干して立ち上がった。
駅前の路地を裏に入った所にあるこの喫茶店は、窓際の席から駅の玄関が見えるのに駅側からはぱっと見こちらが見えない。
裏路地にあるせいかいつも空いているけれどちょっと可愛くて値段も安く、徹が練習で会えない日に私はよくここで時間を潰していた。
「二百円です。消費税はおまけ」
レシートを持ってレジへ行くと、顔見知りになった店番のお兄さんがにっこりと微笑んでそう言った。店内に残っているのは私だけだ。
「ありがとうございました。さようなら」
お金を払うと、お兄さんはそう言って礼儀正しく頭を下げた。
「さようなら」
彼はなんだか清潔そうだ。
背が高くて痩せていて、眼鏡を掛けてて、真面目そうだけれど神経質なイメージはない。いつもきちっと折り目の付いた薄い色のワイシャツを着ている。
とても若く見えるけれど、左手の薬指に指輪をしているから結婚しているのかもしれない。
―――まあ、私には関係ないけどさ。
徹以外の男なんか異性には見えない。
私は喫茶店を出て自転車にまたがった。
まだ、日が暮れると風が寒い。
そろそろ野球部の練習も終わる時間だ。徹は風邪とか引いてないだろうか。
私は、そんなことを考えながらゆっくりと自転車を走らせた。

甘い匂いに噎せそうだ。

徹の家はこの辺りでは老舗の和菓子屋で、自分のうちに工場を持っている。
だから、彼の家はいつも甘い匂いがする。店舗の裏にある母屋まで、砂糖の焦げる匂いが強く漂ってくるのだ。
「おじゃましまーす」
そう声を掛けて玄関を上がると、台所から徹のおばさんが顔を出した。
「あらあら、いらっしゃい、のりちゃん」
おばさんは満面の笑みで私を迎える。
「部屋行くの?お菓子持ってく?」
「あ、お構いなく」
「遠慮しないで。今羊羹出すから」
おばさんは私の返事も待たずにいそいそと再び台所へと消えた。
徹の家には小学生になる前から来ているので、おばさんの中では私は自分ちの子供みたいなものなのである。
「煩せーよ母ちゃん。ほっとけって」
徹が台所に向けて声を掛けた。ちょっと顔が赤い。照れているのだろうか、可愛い。
「何言ってんのかね。のりちゃんは将来ウチのお嫁に来て貰うんだから、大事にしなくてどうするね」
片手にお茶と羊羹を乗せたお盆を持ってきたおばさんは、そう言いながら徹の背中をばんばんと叩いた。
―――き、きわどいことを。
「何言ってんだよっ」
「あれ、照れて」
「くそばばぁ。行くぞ」
徹はぶっきらぼうにそう言って私の手を引いた。後ろからおばさんの笑い声が追いかけてくる。
手を繋いだのなんて随分久しぶりだったので、私はどきどきした。
ありがとう、おばさん。やっぱりおばさんは私の味方だ。
私たちは縁側から外に出て、離れの扉を開いた。
徹の部屋は庭の離れに建っている。一度家の中を通らないと辿り着けないのが難点ではあるが、なかなか都合の良い隠れ家だ。小さいながらテレビも冷蔵庫もあるし、鍵だって付いている。
……最初のときも、ここだった。
「ごめんな、母ちゃんが変なこと言って」
「あはは」
私は苦笑する。私と徹が付き合いはじめたことを一番喜んだのは実はおばさんなのではないだろうか。
「前の彼女は、どーもおばさん苦手で。やっぱり都会の子だからかしら」
前に、おばさんがこっそり私にそう漏らしたことがある。
三浦さんは高校に入る年に東京から引っ越してきたのである。
どこそこの家は何代前からここに住んでいる、というのが尊重されるようなこの町では、新参者はなかなか受け入れられない。差別だとは思うが、それが決して都会には敵わない田舎なりの誇りの持ち方なのだから仕方のないことだと思う。
それでも、親たちはどうかわからないけれども、少なくとも三浦さん本人はとてもうまく学校になじんでいた。
彼女の持つ都会的な雰囲気は、思春期の私たちを惹き付けるには充分な輝きを放っている。男の子には先輩から後輩まで幅広くもてるし、女の子にも憧れの的として人気がある。
私もたぶん、好きだ。決して嫌いではない。恨みも、なにもないけれど。
「…」
私は、炬燵の中の徹の脛につま先で触れた。
「!」
徹の体がびくりと硬直する。
……三浦さんも、「ここ」でこうして、徹の隣に座っていたのだろうか。
―――こんなことは、しないだろうけど。
つま先を、滑らせる。上へ。徹がなぜか恐怖のような表情を浮かべる。
「っす、須川。ちょっと」
「ん」
「ちょっと!」
「…」
徹は私の両肩を突き放すように遠ざけた。
「宿題、やんないと」
一瞬だけ私を見て、すぐに目を逸らす。
「…そだね」
―――つまんないの。
三浦さんなら、自分からこんなことをしなくても徹に抱き締めて貰えるんだろうか。
徹は、あれ以来私に触れない。
私は徹に気付かれないように、小さく溜息を付いた。
考えても仕方のないことだ。
大丈夫。今、徹は私のもの。
いきなり横入りしてきた女なんかには渡さない。
小さな頃、この離れに入れる女の子は私だけだった。
徹のおばさんと私のお母さんは同級生で、子供の頃から親友だった。今でもとても仲が良い。私たちが生まれる前から、二人の子供がそれぞれ男の子と女の子だったら結婚させようという冗談を言い合っていたそうだ。
だから私と徹は、生まれたときから幼馴染だった。
小さい頃、この離れはまるで私の部屋でもあった。毎日入り浸って、泊まることもしばしばだった。
当時徹は私のことをのりちゃんと呼んでいた。須川、と苗字で呼ぶようになったのは小学校の高学年に上がったころからだ。
幼馴染とは言え、女の子とつるんでいるのが恥ずかしくなったのだろう。男の子の社会とはそういうものだと思う。
けれど、私たちが幼馴染だと言うことは学校中が知っている。
地域全てが親族のような町なのだ。私たちは公認のカップル、大袈裟に言えば許婚のようなものだった。
私は、年頃になれば徹とは当然恋人になるのだと思っていたし、やがては結婚するのだと疑ってもいなかった。
ところが、高校に入り三浦さんが転校してきて全てが変わった。
徹は他の男の子たちと同じようにすぐに三浦さんに夢中になって真っ先に彼女に告白し、どうしたことか二人は付き合うことになってしまった。
この時の私のショックが想像できるだろうか。
徹を責めるわけにはいかない。わたしたちの間にはなんの約束もなく、信じられないことに、徹は私のことを本気で幼馴染の親友だと思っていたらしいのだ。
「のりちゃんと徹くんて、付き合ってたんじゃなかったの?」
そう言う女友達たちに、私は微笑まなければならなかった。
そんなの周りが勝手に言っていただけで、私たちは始めからただの親友よと。
私は耐えた。ひたすらチャンスを待った。親友の振りをして。田舎者の徹なんか、都会的な三浦さんにはすぐに振られてしまうはずだと自分に言い聞かせた。
そして、念願のチャンスはやっぱりちゃんとやってきた。

私は徹に処女を捧げた。
徹は、やっと私のものになったのだ。

三浦さんは、今日も具合が悪そうに俯いている。

昼休み。トイレに立った私に、同じクラスの恵ちゃんと淑子ちゃんが駆け寄ってきた。
「のりちゃん、ちょっと、聞いたっ?」
いかにもおおごと、という雰囲気で、淑子ちゃんが言った。
「なに、どーしたの」
「三浦さん、彼氏とやばいらしーよ」
恵ちゃんは、必死で眉をひそめている、というふうな表情で私に耳打ちした。
「…やばいって?」
「だから、別れそうなんだって。ほら、三浦さんって人気あるじゃん。それで、森下先輩がすごい嫉妬してるって」
森下先輩というのは、まだ徹と付き合っている間に自分から告白してまで射止めたという三浦さんの新しい彼氏だ。
「……そうなんだ」
「そうなんだって、落ち着いてる場合じゃないでしょー?やばいよ」
彼女たちの心配そうな顔の裏に、トラブルを期待する表情が覗く。私はほほえんだ。
「大丈夫だよ、べつに」
「わかんないじゃん。若宮君優しいから、泣き付かれてまたころっといっちゃうかも」
「泣きつかないでしょ。だって、三浦さんは森下先輩にべた惚れじゃん」
「だから、当て付けとかさー。しそうじゃん」
「まさか」
笑いながら、私の内側は炎に巻かれた。
やばい。やばいと思った。
そんなことになったら、また、徹が奪われてしまう。自分から手放しておいて、また引き寄せるなんてずるい。そんなことは許せない。
「…大丈夫」
私は自分にそう言い聞かせた。
でも、炎は消えない。いやな感じに胸がどきどきして、苦しい。
「徹!」
教室に戻って、私は徹の腕に抱きついた。
「うわっ、なんだよ、びっくりした」
「今日、練習ないよね?一緒に帰ろうね」
腕を抱いたまま、私は言った。
三浦さんがこっちを見てる気がして振り返ってみたけれど、彼女は相変わらず気分が悪そうに俯いていた。

写真集を眺める。
この店に数ある写真集の中でも、私はこの香港の写真集が一番のお気に入りだ。
乱雑な街並み、でたらめな色彩。ときに驚くほど緻密な細工の家具や刺繍の衣装。
住んでいる人が自分たちによく似ているぶん、その違いが余計に不思議なのかもしれない。
「それ、毎日見てますね」
はっとして顔を上げた。
店番のお兄さんが、傍まで来て私を見下ろしていた。
「毎日見てますね」
彼はもう一度そう言った。
「ああ。好きなんですよね、なんか」
「行ったことありますか、香港」
ない。私は、この町を出たことがない。これから出るつもりもない。
「いいえ、あの、私この町から出たのって修学旅行のときぐらいで」
「そうですか。行ってみるといいですよ。いいところです」
その時、カランカランとドアを開く音がして数人のおばさんが店に入ってきた。
彼はいらっしゃいませー、と声を上げてそちらへ向かっていく。

どこか他所の土地で暮らすことなんて、私は考えたこともなかった。
そう言えば外国とまでは行かないにしても、恵ちゃんが東京の短大を受けると言っていたのを思い出した。考えてもみなかったけれど、確かにそういう選択肢もあるのである。
高校を卒業したら私はこの町で就職するつもりだった。だって、ここには徹がいる。徹は家業を継ぐだろう。そして一生この町で暮らすだろう。
私は将来徹の家に嫁いでそれを手伝うのだと決めている。
写真集に目を落とす。私は、見ているだけでいい。
徹と一緒に、ずっとこの町で暮らすのだから。

しかし暗雲は、思いがけず突然やってくるものだ。
「あ」
聞きなれない着信音が鳴った。
徹の部屋で、借りてきたビデオを見ていた時だった。深い森のバックにロマンティックな音楽が流れているのを遮って、女性歌手の歌声が部屋に響いた。
私の携帯ではない。徹が飛び上がるように立ち上がって、私を見もせずに携帯を持って外に出て行った。
「…」
中庭からは、微かな話し声しか聞こえない。私はカーテンを開いて様子を伺ってみた。徹はこちら側に背中を向けていて、表情は見えない。
―――いやな予感。いやな感じだ。
あの曲は、三浦さんが大好きな歌手だ。
「誰?長かったね」
しばらくしてもどってきた徹にそう聞いてみた。なるべくさりげなく聞こえるように細心の注意を払う。
―――お願いだから、答えて。
「ああ…別に、ちょっと」
徹はそう言って、ばつが悪そうに微笑んだ。
それで、私はもう何も聞けなくなる。でも、聞かなくても解る。
「…ところで、今日のリーダーさあ」
振り切るように、私は明るくそう切り出した。英語教師の陰口と、罪の無い噂話。電話のことなど気にしていない振りをしなくてはいけない。
「あ、ちょっと、トイレ」
それで油断したのだろう。しばらくして、徹は席を立った。トイレは母屋にしかない。
徹が出て行ったあと、私は彼の携帯を盗み見た。思った通り、先ほどの着信は三浦さんからだった。恵ちゃんの情報によると、三浦さんと彼氏はいよいよあぶないらしい。
「…」
―――別に、どうってことない。
もと彼女だって、今は友達だ。電話くらいする。そういう建前がある限り、私は彼を責めることは出来ない。相談に乗っていると言われたらそれまでだ。わかってる。無駄な喧嘩は避けたい。
たとえ彼女専用の着メロを作っていたとしたって、別に気にするほどのことではない。
大丈夫。知らない振りをすればいい。諍いさえ起きなければ、徹は絶対に私を振らない。
完璧な愛なんて、有り得ない。どうせ結婚したら男の人は浮気の一つや二つするものだ。それと同じだ。
携帯をもとあったように置きなおすと、やがて徹が帰って来た。私はずっとテレビを見ていた振りをした。
大丈夫。私は、頑丈な女だ。

しかしその頃から、徹に会えない日はぐっと増えた。

いや、会えないと言っても、同じクラスなので学校に行けばいる。だからまったく会えないというわけではないけれど、放課後や休日、一緒に過ごしてくれることがぐんと減った。
大会が近いこともある。野球部の練習が忙しくなって、時間が作れなくなった。徹は私にそう説明しているし、事実なのも知っている。
でも、それだけではないはずだ。
以前なら、それでもなんとか空いている時間を見つけて会うことができた。最近徹は、空いている時間には休みたいから会えないという。
仕方のないこと。解ってる。でも、寂しい。徹の部屋には、もう一ヶ月以上行ってない。
「…」
いや、大丈夫。大丈夫だって。
今日は徹の家に寄って帰ろうかな。おばさんとお話して、外堀から固めて行ったらどうだろう。
大丈夫。大丈夫だ。
私は、頑丈な女なのだ。
これくらいでは壊れないし、負けない。

「聞いてよ、ちょービッグニュース!」
放課後の教室。恵ちゃんが、興奮した様子で私に駆け寄ってきた。
「なに?」
「ここじゃああれだから、ちょっと」
恵ちゃんはなにやら意味ありげに目配せをすると、私の腕を引いて教室を出た。
噂好きの恵ちゃんは、三日に一度はちょービッグニュースを運んでくる。今回もどうせ大したことじゃないに違いない。
恵ちゃんは私を女子トイレに引きずり込んで、息をつく暇もなく喋り始めた。
「もー、ほんとびっくり。マズいよ」
「また、そんなこと言って」
「いや、今度は本当に大マジ。絶対驚く」
「解ったから、早く言いなよ」
「言うけど、大きな声出さないでよ?まじヤバいんだから」
恵ちゃんは勿体つけるように一度大きく深呼吸した。
「三浦さん、妊娠してるらしいよ」
「はぁ?」
恵ちゃんが慌てて、しーっと唇に人差し指を当てる。
―――なんだって?
にんしん、と私は唇を動かした。
「そう、妊娠」
恵ちゃんは、いつものように必死に眉を顰めている。
「…それ、誰から聞いたの?」
「いや、だから、噂だよ噂」
噂だって人から聞いたものだろう、誰がそんなことを。面白がっているのは明らかなのに、出来る限り深刻な声で話す恵ちゃんを私は呆れて見詰めた。
三浦さんのことは嫌いだが、さすがに同情する。
「それでね、気を悪くしないで聞いてね。赤ちゃん、誰の子かわかんないらしいよ」
続けて言った彼女の真意が解らなくて、私は首をかしげた。
「……は?」
「だから、森下先輩の子か、若宮君の子かわかんないんだって」
一瞬、眩暈がした。
噂の火の粉が急に自分に降り掛かってきた。
「……なにそれ」
「あ、だから、気を悪くしないでったら」
冗談じゃない。そういう問題か。
私は恵ちゃんの無神経さに怒りを覚えた。
「ちょっと、恵ちゃん。そういうことをあんまりさあ」
「いや、だから、あたしも驚いてるんだったらさ。あたしのせいじゃないじゃん、怒らないで」
「……」
どういうことだ。
三浦さんが妊娠してて、それが徹の子供?
有り得ない。計算が合わない。
「有り得ないよ」
きっぱりと、私は言った。
「だって計算が合わないじゃん」
「そんなこと、解らないじゃない。別れたあとってこともあるし」
「バカ言わないで!」
思わず大きな声が出た。恵ちゃんがびっくりしたように目を見開く。
その時どこからか、ジャー、と水を流す音が聞こえた。
「!」
人だ。個室の中に人が居る。
私と恵ちゃんは顔を見合わせた。まずい。聞かれただろうか。
こんなこと、あまり愉快な話ではない。これ以上広まったら私も困る。
私は声を潜めて恵ちゃんに耳打ちした。
「とにかく、実際確かめたわけじゃないんだから変なこと言わないでよ。怒るよ」
「そんなこと言ったって、のりちゃんだって気になるでしょう?」
「そりゃあ、気にはなるけどさ……」
水を流したのに、個室にいるはずの誰かはなかなか出てこない。もう一度水を流す気配もなく、それきりトイレはしいんと静まり返った。
―――おかしい?
いいかげん出てきても良い頃なのに。そう思った時。
一番奥の個室の扉が、ゆっくりと開いた。
出てきた人物を見て、私は息を飲む。恵ちゃんも、気が付いて真っ青になった。
「…」
全部聞いてしまったのだろう。三浦さんは真っ赤な顔をして、唇を震わせて、瞳一杯に涙を浮かべていた。
何も、言えなかった。
三浦さんは私たちから目を逸らし、その場から走り去っていった。

―――最悪。
最悪だ。信じられない。
あんな噂が出回るなんて。考えてもみなかった。
―――しかも、三浦さんに聞かれた。
いやな気分だった。私が悪いことをしたわけではないのに、もの凄くいやな気分だ。
いやな予感がする。

次の朝。形にできない不安を抱えたまま登校すると、校門の前に徹を見つけた。
「おはよう、徹」
「……」
徹は仏頂面で、こちらを振り返りもせずにちらりと視線だけを寄越した。いつものにっこり笑顔が返ってくるとばかり思っていた私は拍子抜けした。
「どしたの、徹」
話し掛けても、徹はふいと目を逸らす。
「ちょっと、付き合えよ。いいか」
「?…うん」
私は徹に連れられるまま、人気の無い裏庭へと入って行った。
「ちょっと、徹?どーしたの…」
くるりと振り返った徹の瞳が私を捕らえた、その瞬間。
ぱっと火花が散って、一瞬、目の前が暗くなった。
「っ」
気付くと、私はぺたんと道路に座り込んでいた。
「お前、三浦に何てことしたんだよ!」
はじけたように、徹がそう叫ぶ。
殴られたのだとすぐにはわからなくて、私はぱちくりと目をしばたかせた。
頬が痛い。私は無意識に、手の平を頬に当てていた。
徹が、それまで見たことも無いような表情で私を見下ろしている。
「……なに……?」
「信じらんねぇよ。そういう女だったのかよ。嫉妬するのは勝手だけど、三浦には関係ねぇだろう!?」
なんとなく、わかった。
もやもやしていた嫌な予感がすっかり的中したのだ。
「俺のことは何言っても良いよ。だけど、三浦のことを侮辱するのだけはやめてくれ。あいつはそんな女じゃないんだ」
―――私とは違って?
「……私、何のことかわからない」
そう言ってみた。泣きそうだ。
「ふざけんな!お前、三浦が、に、妊娠したとか、噂流してるんだろう!?わかってんだよ!」
わからない。わからない。本当に。どうしてそんな話になる?
噂をしていたのは私じゃない。私だって不愉快な話を無理やり聞かされただけなのに。
それが、どうして。
「……そんなこと、してない」
なんとか搾り出した言葉の、最後の方は嗚咽に消えた。
三浦さんは、多分あのあと徹に話したのだ。
徹には私が三浦さんにいやがらせをして噂を流したとしか考えられないのだろう。
「そんなことしてない!」
本当に。
でも、多分徹は信じない。私の言葉より三浦さんを信じる。
しばらく、沈黙が流れた。言葉より涙としゃっくりが出て、何も喋れない。徹はしばらく虫でも見るように私を見下ろしていたが、やがてくるりと背を向けて去ってしまった。
「……ひっ、ひっ」
しゃくりあげ、上手く息が吸えなくて、ひゅうひゅうと喉が鳴る。嗚咽で苦しい。吐きそうだ。
やがて授業の始まりを告げるチャイムが鳴るのを、どこか遠くのことのように私は聞いた。

瞼が熱い。多分凄く腫れている。
私は目の前の写真集をぺらぺらと開いた。
それは沖縄の写真集だった。見たことが無い、新しいものだ。
咲き乱れるブーゲンビリア、青い海、緑。
初めて見るものばかりなのになぜか懐かしい。
眺めていると、先ほどの徹との喧嘩がすうと現実感を失っていくのを感じた。
徹に見捨てられ、私は行くあてもなくいつもの喫茶店に来ていた。
泣きはらした顔をお兄さんに見られるのが恥ずかしくて、私は前髪で顔を隠す。
「新作なんです。どうですか?」
話しかけて欲しくなかったのに、レモンジュースを運んできた彼が私にそう声を掛ける。
「……きれいですね、とっても」
俯いたまま応えた。視線と落とした先の写真はどこまでも鮮やかだ。
非現実的なほど美しい、向こう側。
今すぐ逃げて行きたい、そこへ。
「ありがとうございます。その写真、ぼくが撮ってるんですよ」
「えっ」
突然の言葉に私は驚いて、最後の頁を開いてみた。そこには「撮影 永沢聖」とある。
どうやらそれが彼の名前らしかった。
「……凄い。じゃあ、ここにある写真集全部?」
「ええ、まあ」
「凄い!」
何度も何度も読んでいたのに、全然気が付かなかった。
「まあ、ほとんど収入にはならない趣味みたいなもんです。でも、人の目に触れるとやっぱり嬉しいですね」
そう言って、聖さんははにかんだように微笑む。
「……そうだったんですか」
驚いた。
では、彼は外の世界を知っている人なのだ。ここにある全ての「向こう側」を、知っている人なのだ。
私の中で彼の輪郭が揺らぐ。目の前で話す彼が、まるで突然遠い人になってしまったようだった。
遠い。私にはとても遠い。私は目の前の出来事で手一杯だ。徹が私の全てなのだ。
この町からは出られない。明日もあさっても、ずっと。
徹が私のもとに帰って来なかったら一体どうなってしまうんだろう。
そう思ったら、頬をするりと涙が流れた。
「あ」
私は慌てて制服の袖で頬を拭う。しまった。格好悪い。
「すいません、なんか」
あはは、と笑い声を立てようとしたら声が掠れてしまって、もっとみじめになった。
「……すいません」
掠れる声でもう一度謝る。
「羨ましい。私もあなたみたいに、身軽になりたいです」
私は言った。
「私は、とても重い。どこにも行けないし、何もできない」
徹がいなくなったら、この先どうしていいのかわからない。
聖さんが沖縄の写真集を開いた。
「そうかな。一度どこかへ行ってみると良いですよ。大したことじゃない」
「そんな風に、知らない場所へ行く勇気は私にはないです。現実とは思えない」
聖さんは肩を竦めて、ふっと笑う。
「でも、そこにあるのはその場所に住んでいる人たちの現実ですよ。そこで暮らす人たちには毎日変わらない日常がある。ここと同じ」
私は顔を上げた。聖さんは微笑んでいる。
「意外と、抜け出すのは簡単ですよ。多分、あなたの周りの景色はまだ狭い。広がると、楽になることもありますから」
「……そうでしょうか」
「ちょっと待ってて」
聖さんは思い出したように言って席を立ち、店内から姿を消した。
しばらくして戻ってきた彼の手には数枚の写真があった。
「これ、どうかな。次の写真集に使おうと思って」
手渡されたそれは、この町の写真だった。
「……!」
私は一枚一枚に目を通して驚く。
夏の海。くたびれた家並み。田圃の緑、一面のれんげ畑……どれも、すぐそこにあるこの町の風景だ。なのに。
「きれい」
思わず呟きが漏れた。
それは見慣れた景色のはずなのに、私の知っているそれとは全く違う色彩をしていた。まるで他の写真集にあるような、自由の国と同じ色だ。
「凄い……こんなにきれいに撮れるなんて」
「きれいに撮れてるんじゃない。もともときれいなんですよ。そこで生活していると、一見気付かないけれど」
私は聖さんを見上げた。
「ファインダーを通すと、きれいなものがたくさん見えます。皆、当たり前にそこに在りすぎて見逃してしまうけど」
聖さんが笑った。
これが、現実?
いつもそこにあるもの?
自由の国と、「外」と同じ色彩の、これが。
それは確かに、私の知っている景色に違いなかった。
―――そうか、私はもともと「外」にいたのか。
憧れたあの写真の中の世界とここは、繋がっているのだ。
ならば。
いつか、私の知らない世界を見に行くこともできるのかもしれない。
今はここが、目の前の現実が、徹が私の全てだけれど。
もしかしたら、いつか。

そろそろ授業が終わる時間だ。駅へ向う人の流れの中に、三浦さんと肩を並べて歩く徹の姿が見えた。
慈しむように、優しい瞳の徹。それは三浦さんに注がれるから。
私は唇を噛んで、三浦さんの肩に腕を回す徹の姿を目を逸らさずに見詰めた。
これが、現実。
今は私にとっての世界の全てが「これ」だから、痛くて仕方がない。
―――抜け出せる日が来るのだろうか。
私は写真に目を落とす。何度も何度も、じっくりと眺める。
「きれい」
私はもう一度、呟いた。
少しだけ、痛みが和らいだ気がした。


※2002年頃、コバルト作家時代に書いた未掲載短編です。

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