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自然とつながる

それは、脳に小さく光がさしたような感覚だった。

雪が積もったある日のこと、朝日にきらめく雪を堪能しながらカメラ片手に散歩をしていた私は、ある記憶をふと思い出した。

幼い頃、前日に作ったかまくらが溶けて崩れているのを見て、私が悲しんでいると思ったのか兄が「作り直す?」と聞いてくれた、その時の気持ちを。「このままでいい」と答えた私。小さな頃から、なぜか私には「物事は移り変わっていくもの」と言う意識が妙に強かった。私にとって自然は全てを包括する大いなる存在で、その中で小さな私たちは活動してるに過ぎない。小学生に上がる前からそう思っていた。だから毎日目一杯遊び、辛いことがあっても星空を見上げて世界の一部に戻ればいい。

高校生になり、大学生になり、OLになり…
いつしか研ぎ澄まされた個ではなく、誰かに依かかりすぎたり、期待したり、あらがってみたり、人のせいにしたり、余分な贅肉がたくさんついてしまったように思う。人間としての垢、のような。

ある日、いつものようにヨギティーを飲みながら、ティーバッグについた紙片に書かれたメッセージを読むとこう書いてあった。
「Communicate sacredness; build it, share it, and spread it.」
またか。またこの類の。今年はどうやらこれを考えなくちゃいけないみたい。実際今年に入ってから、この類のメッセージはこれだけじゃない。

そして今日。
私は、クラゲがふわふわ漂うのをじーっと見つめていた。
時折懸命に円の縁をひだひだと動かしたり、それでも多くの時間は水の流れに乗ったまま浮かんだり沈んだりしている。他のクラゲにぶつかられても押し返す風でもなく、一旦それを受け止め、束になったまままた流れに乗る。いつしか少しずつ離れていく。人間の私からすると、ずいぶん肩の力が抜けているように見える。

「自然とともにあることを理解する」

そんなことを考えながら。

外に出ると、ビルの谷間から東京ではあまり見ることのない(普段は気づいていないだけなのかもしれないけど)パステルカラーの夕焼けが広がっていた。水色にピンク。信号待ちの大人たちがスマホを空に向けている。

そうだ。
私は、流れるままに生きたかったんだ。
こんな風に、漂って。何かに縛られたり、しがみついたりすることなく。
また玉ねぎの皮をむくようにして、身についた要らないものに少しずつさよならしよう。




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