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沈黙と残響

 魔女たちは古来と比べて随分と大人しくなった。昔はお菓子の家で釣った子どもたちを狙ったりもしていたが、昨今はそんな野蛮な魔女はもういないだろう。何しろ共存の時代だ。魔女が自分の暮らしのことで精いっぱいに生きているうちに、人間は他人と手を取り合い、知恵をつけてきた。種の存続、子孫の平穏無事のために。

現代の魔女は人間を襲わない。もっとも、現代の魔女も古来の魔女も同じ個体だったりするようだが。魔女の生態は未だ明らかではないが、不老不死もしくは人間の何十倍も生きるといわれている。

 そんな現代社会を生きているごく平凡なサラリーマンがこの僕である。そう、僕は平凡だ。だが、もしかしたら異常でもあるのかもしれない。僕は魔女に食べられたい。いつからかそう思うようになっていた。希死念慮を抱いていた訳ではない。それなのに、どうしても食べられてみたいのだ。魔女と人間の見た目はほぼ同じだが、人間に食べられるのは勿論嫌だ。食物連鎖さえも操る人間を食べる魔女。僕はその圧倒的な存在というものに憑かれているのかもしれない。

魔女に食べられることで初めて、子どもを作り育てることよりも遥かに、僕は地球上の生命体としての役割を果たせるのではないか。そしてそれはつまり、いわゆる三大欲求を満たすことよりも何よりも、本当の意味での快楽に値するのではないのか。

 人間の法に囚われることと引き替えに人工食糧を安定供給されている今の魔女にとって、人間、僕を食べることはリスキーな行為であるはずだ。一般人である僕にとっても、法を掻い潜り魔女に自分の体を売り込むことは容易ではない。だがしかし、現代の魔女といえど正体は所詮は古来の魔女なのだ。まだ人間の味を、匂いを、悲鳴を、きっと憶えているはずだ。毎晩思い出しては人間の味に味を占めて諦められない、そんな魔女に僕はこの身を差し出したい。そうして、僕を(久しぶりに人間を)、食べるという快楽に溺れる魔女を想像しながら、人生の意味を深く知って、僕は消えていきたい。それはきっと、火葬よりも土葬よりも水葬よりも、儚くて美しいものであるはずだ。



    私は魔女。いつからこの世に存在していて、いつまでこの世に存在し続けるのだろう。年齢という概念が私にはない。ただ暑いと寒いを繰り返して、食べると寝るを繰り返して、そうして生きているだけだ。いつだったか、私に騙されて鍋で煮込まれている人間に聞かれたことがある。お前は退屈ではないのかと。私はその煮込まれ真っ只中の男に、退屈という言葉は認知しているが、その実態は一体何なのだと問うた。男は私の問いには答えずに、その代わりに憂いの表情を浮かべた。今までに見たどの人間の表情よりも、騙されたと気づいたときの人間の顔や食べられる前の人間の顔よりも、そのときの男の表情は悲しげだった。今でもたまに夢に見る。私は多分人間のああいう表情をまた見たいと思っている。

人間が私たちに共生を持ちかけてきてから、もう幾らかの月日が経った。人間の暦に則るならば20年くらいは経っただろうか。家には定期的に、人工食糧が届く。あれは食べやすい。服を汚す必要がないし、人間を罠にかける面倒もない。だけど、あれを食べることは、私にとっての屈辱だ。人間を捕食する側の魔女が人間に統制されているというのは如何にも居心地が悪い。その癖人間は牛を食い豚を食い鶏とその卵をも食い、鰻を食って最終的には虫まですべてを食いつくす予定なのだという。地球に食料がなくなったら宇宙でも破壊するつもりか。この世の頂点に立ったような振る舞いをしているにもかかわらず、仲間内ではいつだって謙虚なフリをしてみせる。でもその仲間、同族を、最後にはいとも簡単に貶めるのだということを私はよく知っている。

 家の近くに、男が迷い込んできた。中年の何の特徴もない男。男はキョロキョロと辺りを見回している。男の様子にはどこか違和感がある。人間が普段寄りつかない土地に迷い込んだにしては無防備すぎる。しかし、自棄になって自死を試みる様子にも見えない。ということは、なるほどこの平凡な中年は私に、魔女に会いに来たのだな。だが、心身ともにそれなりに健康そうなこの男が一体私に何の用なのか。のうのうと食べられに来たとでもいうのか。そうだとしたら。

 私はこの男を飼うことにした。初めての家畜だ。男は、理由はともあれ私に食べられに来たのだろう。そんな男をまんまとさっさと食い尽くすのは、人工食糧を食らうこと以上の屈辱だ。人間の思惑に屈する必要などない。だから私は男を飼い始めた。男は、すぐに私との生活に慣れた。庭で採れた草や虫を食べることにもゲージにも慣れた。そして人間はすぐに歳を取る。私と暮らし始めて言葉を発することをやめた男が何を考えているのかは知らない。感情のないような表情をしている。いつか私が男を食すとき、男の顔は鮮やかに歪んでくれるだろうか。いつかの鍋の中の男のことを、最近はよく思い出す。

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