長濱ねるの言葉の紡ぎ方

長濱ねるの言葉の紡ぎ方がとても好きだ。繊細で愛を感じる。
今月のダヴィンチのエッセイもとても素晴らしかった。朝起きてラーメンを食べるまでの間に、過去の回想がふら〜っと侵入してきて、うとうとしている感じがそのまんま伝わってきた。
どうかエッセイだけはなんらかの形で書き続けて欲しいと思っている。

最近、言語化するということが持て囃されてる。twitterで言語化と検索してみると言語化することが正義だと思ってしまう。
「書くことは世界と刺し違えること」というのは作家の藤沢周の言葉だけれど、言語化するということは物事を抽象化することで、そこから溢れる感情や事象は必ずある。3次元のものを2次元に落とす、みたいな作業が必要とされる。
もっと悪く言えばレッテルを貼るということでもある。
にも関わらず、なぜ言語化が持て囃されるかというと、未来を予測するために必要だからだと思う。
何かを生産出来たほうが有利な社会に私たちは生きていて、何かを生産するためには未来を予測することが必要で、未来を予測する手段として言語化することが必要だからだ。

私は大学院で建築物の劣化予測を研究しているが、劣化予測は、過去の現象をモデル化して未来に延長するという方法で行われる。モデル化した予測結果を検証すると、実情とは予測誤差が存在している。ただその予測誤差を全てそのまま拾おうとすると情報量が多すぎて、未来の予測なんて出来ないので、仕方なくモデル化している。モデル化の精度はその予測誤差をどの程度許容するかで決まっていて、より繊細にモデル化すればするほど計算量は膨大になる。

言語化もいわばモデル化であると思う。たとえば「男は〜だ」というモデルはものすごく予測誤差が大きい。だけど、モデル化して予測しないことには未来に対して何も生み出せない。そして全ての事象を考慮して未来を予測できるほど私たちの頭の容量は大きくない。だからある程度の誤差を、無意識にもしくは意図的に、無視して言葉にしている。

私たちは何かを言葉にするときに、過去に読んだり聞いたりしたことのある言葉をコピペしてつぎはぎしている。
その1つのパーツが大きければ大きいほど、言葉と事象や感情の誤差が大きくなる。
「悲しい」という言葉で表される感情が全て同じなわけがない。「彼女にフラれて悲しい」なのか「仕事でミスをして悲しい」なのか「景色が美しすぎて悲しい」なのか、悲しいにもたくさんの悲しいがある。(これでもまだまだ誤差は大きい)そして、「そこで生まれる誤差をどれだけ許容できるか」がその人の繊細さであって、それは言葉のパーツの大きさに現れるように思う。コピペする言葉のパーツが大きければ大きいほど、言葉と感情の誤差は大きくなるからだ。私は鈍感なのでほとんど気にしない、というか気に出来ないから、繊細に言葉を紡ぐ人に憧れを抱く。

長濱ねるは「心を込めて生きていきます。」とか「柔らかい姿勢で沢山吸収して」みたいにコピペする言葉のパーツが小さい。卒業ブログの最後の文で将来の生き方を語る時、私なら「頑張って生きていきます。」とか「楽しんで生きていきます。」をあまり考えずに使ってしまう。「沢山吸収する」の修飾には「謙虚な姿勢で」を付けてしまう。
多分長濱ねるは、とても繊細でその誤差を気にしてしまうのだと思う。だから出来るだけ正確に感情を見つめて、エネルギーを使って言葉を紡いでいる。その費やしたであろうエネルギーに世界への愛を感じる。コピペの部分が小さいから、ありふれた言葉の繋ぎ方にならない。長濱ねるの感情に根差した独自の言葉選びになる。
繊細で感情とアウトプットの誤差を気にしてしまうからこそ、独自性があって心地よい言葉選びになる。
一方で、テレビやラジオで短時間でのアウトプットを迫られ続けると、一杯いっぱいになるんだろう。
だから多くのメディアに無理して出なくていいので、エッセイだけは続けて欲しい。

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