執念で挑む【没後10年 吉村芳生展】

東京店での2024年最初の企画展、「没後10年 吉村芳生展」についてご紹介いたします。

会期は2024年1月13日(土)~28日(日)。
ちょうど5年前の2019年1月にも、東京店で吉村芳生展を開催しておりました。
そして初めて吉村芳生の個展を画廊で開催したのは14年も前の2010年にさかのぼります。2013年に63歳という若さで突然なくなった吉村氏、みぞえ画廊で最初で最後の個展となってしまったのです。

吉村芳生

1950年に山口県で生まれた吉村芳生、スケール感と緻密さで見る人を圧倒させる作品で人気を集め、代表的な作品が巨大なコスモスや藤棚、延々と17mも続く巨大な金網、活字一つ一つを含めた新聞を色鉛筆や鉛筆で忠実に描いたものです。

現代アートシーンで名前が広く知れ渡るきっかけとなったのが、第61回「山口県美術展覧会」での大賞受賞と、同年に森美術館で開かれた「六本木クロッシング2007」展での展示でした。

また、2018年に始まった全国巡回展「吉村芳生 超絶技巧を超えて」も、彼の作品を多くの人の心と記憶にやきつけることとなりました。この巡回展は東京ステーションギャラリーから始まり、あまりの大盛況により開催会場を7つも増やすこととなった異例のロングランでした。

展示の様子

《ケシ》、F80号、2003年、色鉛筆
左:《フジ》、P15号、色鉛筆 右:《アジサイ》、F6号、色鉛筆
《モクレン》、F6号、色鉛筆
左:《オドリコソウ》、SM号、色鉛筆 右:《シュウメイギク》、F0号、色鉛筆
《ヤグルマソウニベニシジミ》、10×14.5cm、色鉛筆
《新聞と自画像 in Paris》、40.5×27.5cm、2012年、新聞紙に鉛筆

今回の吉村芳生展では、初期に制作された版画作品や、色鉛筆で描いた小さな花から後に描かれ大規模な花の作品、ずっと描き続けていた新聞に自画像シリーズなどが展示され、絵を描くことに没頭し続けた吉村芳生の人生のあゆみがあらわれるものとなっておりました。

画廊に入って最初に見える玄関正面の作品がこちら。

《バンダ》、P100号、2007年、色鉛筆

吉村芳生展の説明を聞いたあと、この迫力ある作品が写真でもなく、油彩でもなく、色鉛筆で描かれているということに、初めて見る方は大変驚かれていました。

《バンダ》のクロースアップ


目に入った瞬間に圧倒され、すぐ近くにいって作品の実態を確かめたくなってしまいます。
近くで作品をご覧になり、目で色鉛筆の線を確かめたあとでも、色鉛筆で描かれた作品だとは信じられない、という方も多かったです。

作品制作のこだわり

そんな吉村芳生の作品には様々なこだわりが詰まっています。
色鉛筆はファーバカステル社の物のみを使い、100種類以上の色を使い分けることで、驚くほどリアルな作品を実現していたのです。

そして出来上がった作品と同じくらい圧巻なのが、作品が出来上がるまでの工程。

色鉛筆の作品の場合、まずはモチーフを見つけ、それを写真に撮り、描きたい作品のサイズに拡張します。

次に、拡張した写真に2.5mm四方のマス目を描き、これから絵を描く紙にも同じマス目を描きだします。

そして、マス目ひとつひとつと向き合いながら、その中身を模写するのです。

このような独自のルールに基づいて描いたもののなかでも、一番驚かれる方が多いのが、数字を書き入れて作られるペン画や版画のシリーズです。

 

《ROAD No.10》、69×52cm、1978年、エッチング
《SCENE》、28×32㎝、1984年、ペン

まずはモノクロ写真を撮り、それを作品の大きさに引き伸ばし、細かなマス目に分割し、別の紙に同じ方眼を描く。そこまでは色鉛筆の作品とも共通した工程です。

しかし、ペン画の場合はこの先が違います。
引き伸ばした写真の各マス目の濃淡を表すために、1から10の番号を書き込むのです。

この1から10の数字は、マス目の中に描かれる線の数に比例しており、濃淡の数字が1の箇所には線を0本、10の箇所には9本描きます。
このルールに従って延々と線を描いていくことで絵が完成するのです。

この制作工程について知ると、
「1から10までの数字をいれるだけでも大変そう。」
「最初の数個であきらめてしまいそう。」
「いくら時間があっても終わらなさそう。」
などと、驚嘆の声が多くあがります。

このような工程にこそ、吉村芳生の作品が写実画という枠を超えて注目される理由があるのではないでしょうか。

「私の作品は誰にでも出来る単純作業である。・・・私は小手先で描く。上っ面だけを写す。自分の手を、目をただ機械のように動かす。あとはえんえんと作業が続くだけである。」
吉村芳生の言葉です。

このような機械的作業に彼の執念、しつこさがよくあらわれてあり、この執念、しつこさがアーティストとして最大の武器であったのです。

多くの人が名を残そうと努力している芸術の世界では、持ち前の芸術的才能やセンスだけで挑んでも、成し遂げられることには限界があると感じ、その中で名を残すためにはどうすればいいか、彼は模索していたそうです。

そこでたどり着いたのが、個性を活かした挑戦をすること。

執念深さという個性を活かし、他の人がやっていないことに挑戦した結果が17mの巨大な金網の色鉛筆画や藤棚、文字一つ一つを再現した新聞紙といった、写実性と大きさにこだわった作品だったのです。

 なかでも新聞紙を用いたシリーズは、吉村芳生の代表的な作品であり、初期から描き続けられていました。

今回展示されている作品は市販の新聞紙に鉛筆で自画像を描いたものです。

《新聞と自画像》、54×42cm、2009年、新聞紙に鉛筆

この作品も、まずはモチーフである自分の写真を撮り、引き伸ばした写真と新聞に方眼を描き、方眼のなかにうつるものを描き移していく、という工程をたどります。

新聞という社会の肖像画とアーティスト本人の肖像画、時の流れとともに姿を変えていくものの一瞬を切り取って重ねたこの作品は、時間の経過ともに見る人が感じるもの、思うことも大きく変わってくるのでしょう。

自画像の表情にも注目すると面白いです。新聞ごとに表情は様々であり、その掲載内容に反応した表情を撮るようにしていたそうです。

《新聞と自画像》、54×42cm、2008年、新聞紙に鉛筆

新聞の内容に目を通し、何にたいしてどのように反応した表情なのか、自分だったらどんな表情を選ぶかなど、いろいろと想像してしまいます。
10年後に作品を見た人が新聞の見出しを読んで、そこにうつる吉村芳生と同じ表情をしてしまうかもしれません。或いは、何がそのような表情にさせたのか、疑問に思ってしまうかもしれません。

これらのバラエティー豊かな表情の数々は、ご家族が撮られていたそうです。

満足のいく写真がとれるまで、ご子息の大星さんと奥様の春美さんに、細かい指示をしながら無数の写真を撮り続けてもらったそうです。

このように、吉村芳生の作品には家族がかりで取り組んだものも少なくありません。

その一方で、一人で制作に取り組んでいたものもあります。それが新聞と自画像 in Parisのシリーズです。

《新聞と自画像 in Paris No.1034》、40.6×27.6cm、2012年、新聞紙に鉛筆
《新聞と自画像 in Paris No.1031》、41.5×27cm、2012年、新聞紙に鉛筆

2011年から、60歳にして初の海外留学をしたパリ、そこに滞在した一年の間に毎日、現地の新聞に自画像を描き続けていたのです。
一日に複数枚の新聞を買い、一年で1000枚以上、一日で3枚ほどのペースで描き上げていたそうです。

そしてこの作品はめずらしく、写真に方眼を描いて模写するというプロセスをふんでいないのです。
ご家族に写真を撮ってもらっていた新聞と自画像シリーズとは違い、これらは鏡をみて描かれた自画像です。
そして一日何枚も描くというハイペースな作業のため、またフランス語がわからなかったため、表情は似たような落ち着いた印象のものが多いです。

《新聞と自画像 in Paris No.1010》、41×27.5cm、2012年、新聞紙に鉛筆

自画像を描くベースとして選ばれた新聞の種類も様々で、戦争についてのニュースが一面を占めるものもあれば、少し遊び心を感じられるものもあります。
話題性で選んだものからデザイン性で選んだものなど、吉村氏の表情はあまり変わらずとも新聞紙自体に様々表情が感じられます。

一人きりで言葉の通じない冬のパリ、孤独で憂鬱な気持ちになりながらも、吉村氏は毎日かかさず新聞を買い、鏡に映る自分を描き続けていたのです。

左:《阿吽の自画像(阿 1202)》、54.2×40.8cm、2011年、シルクスクリーン
右:《阿吽の自画像(吽 174)》、54.4×41.4cm、2011年、シルクスクリーン

このように、パリでの孤独な冬やアーティストとしての成功を収めるまでの苦労を乗り越え、絶えず描き続けられたのは、描くことにたいする執念、情熱、愛を強くもっていたからではないでしょうか。

描く意味、描くものを見つけるのは容易ではない一方で、何かを描かなければならない、描きたい、という気持ちから絵の題材として選ばれた新聞紙や花、金網、自身の顔といった、日常にあるものの数々。
それらのモチーフを忠実に写しとった吉村芳生の絵は、写実主義という枠を超えたものなのです。

一見、一つ一つにたいした違いはなさそうな数々の葉っぱや花、背景に映る影など。
いくつも描くとなると、このモチーフはこの形、という先入観を持って、頭の中で空白を埋めながら描いてしまいそうです。

しかし、吉村芳生の作品をよく見てみると、全体を構成する無数の緻密な線が描きこまれているのがわかります。そしてそれらの線はひとつとして同じものがありません。
実在するものの一瞬を切り取った写真、そこに写るがままに描いており、妥協はゆるされないのです。

吉村芳生は色鉛筆、ペン画、エッチング、シルクスクリーン、木版画など、さまざまな手法で制作をしていましたが、どれにおいても共通して言えるのは、手間を省くようなことはしていないということです。

写実的な作品を描く人はたくさんいますが、写真が存在し、なんでもAI生成が可能な今、リアルなだけではここまで人々を感動させられないはずです。吉村氏の作品には写実性の追求を超えた魅力があり、それが人を動かすのではないでしょうか。

機会化によって人間が手でおこなう必要のなくなった様々なプロセスを、あえて自らの手でおこなうことで、機械的作業に人間的感覚を戻しているのかもしれません。
そしてこのようなこだわりに、描くという行為そのものへの並外れた愛と情熱が表れていると感じます。

絵の緻密さとスケール感、完成させるためにかかった労力と時間、その超人的スキル、精神力また、描くという行為に対する熱い思い。
すべてに圧倒されます。

そんな吉村芳生の描くことにたいする愛はご子息でありアシスタントとして側で支えたアーティストの吉村大星さんにも引き継がれていると思います。

 

吉村大星

書斎に並べられた吉村大星さんの作品

吉村大星さんの作品を画廊で展示するのはこれが初めてでした。
展示されたのは猫の絵を色鉛筆で描いた3点、モーターショーの高級車を描いた1点、そして吉村芳生と同じモチーフを描いたタンポポ3点です。

 中学卒業後、お父様のアシスタントとして制作の手伝いをしていた大星さん。
子供のころからお父様の描く姿を見て、楽しそうだと思い、アーティストへのあこがれはあったとおっしゃいます。

吉村芳生にとって転機となった2007年の六本木クロッシングでの展示は、大星さんにとっても重要なイベントとなりました。
アシスタントとして同伴していた彼は、そこで現代アートを見て刺激を受け、自分も描きたいと思われたそうです。

そこから、昼間はアシスタントとしてお父様の製作の手伝いをしながら、夜は自身の製作活動に取り組んでおりました。
近くでお父様を見て学んだ技を活かし、慣れ親しんだメディアムである色鉛筆を使いながらも、当初はお父様と同じものを描いてはつまらないと思い、違うモチーフを探されたそうです。

そこで、自分らしいモチーフとして選ばれたのが、野良猫でした。
人が減っていく徳地に残る大星さん、その地に残る野良猫たち。
共感できるところがあったのです。

「現実を変えることはできないけど自分を変えることはできる」
左:《希望は捨てない》、P50号、2013年、色鉛筆
真ん中:《誠実と純潔と夭折》、P50号、2014年、色鉛筆
右:《考えている一部が見えてくる》、P50号、2014年、色鉛筆

展示された3部作で描かれているのは野良猫のロケット。
ほかのオス野良猫と違って性格がおだやかであり、少し臆病。
そんな猫に自分を重ね、特別な思い入れがあったそうです。

そしてその猫を三部作で描こうと思ったのは、自分へのチャレンジとしてでした。
同じモチーフを違うサイズで描くことはお父様もあったが、同じ絵を同じ大きさでそっくりに描くことは新たな試みであったのです。

最初は5部作の予定が、3枚で疲労困憊となったそうです。一枚でも疲労困憊しそうなものですが、三枚もそっくりに描き上げた粘り強さはお父様と共通するところを感じさせます。

こちらの猫三部作を描き上げた大星さんは、その後スランプに陥ってしまいます。

実は、ロケットは2012年、作品の写真が撮られた数か月後、作品が完成する2年前に亡くなってしまいました。
他の猫では同じようには描けず、作品に込められる意味や思いにも納得いかなかったのです。
何を描けばいいかわからない状態が続いた後、考え方を変えて描いたのが車でした。

当初は公募展に出すことを目的に制作をしていましたが、スランプの時は公募展に出すのをやめ、シンプルに描きたいものを描こうと思いはじめたそうです。

《COVID-19以前》、P100号、2022年、色鉛筆

15歳ではじめてモーターショーの高級外車を見たときから、車へのあこがれを持っており、初めて絵の題材として選ぶ5年前からすでに車の写真は撮り続けていました。
しかし、作品にすることはなかったそうです。
車の絵を描く理由、コンセプトが見いだせなかったのです。

しかし、ある時、これなら作品にできる、と思える車の写真が撮れました。
これを機に、描きたいものを描きながら、改めて、自分はなぜこれを描いているのか、というコンセプトの模索を行うようになったそうです。

最後に紹介する大星さんの絵は、タンポポ。

左:《ライバル》、SM号、2023年、色鉛筆
中央:《親離れ》、SM号、2023年、色鉛筆
右:《必然》、SM号、2023年、色鉛筆

お父様とは同じモチーフは描かず、違うことをしたいと思っていた大星さん。お父様がご存命の間は同じモチーフを描くことはありませんでした。

しかし、お父様が亡くなられた後、周りから依頼を受けるようになります。このような依頼をきっかけに、初めてお父様と同じモチーフである花の作品を描きました。

その後、大星さんは美の巨人たちで組まれた吉村芳生特集のために、新聞と自画像シリーズの再現を頼まれました。
時間の猶予を与えられない中、すでに案件を承諾していたため、描くこととなったのです。
しかし、出来上がった新聞と自画像に大星さんは納得していなかったませんでした。
そして、4年後の再挑戦をするのです。
自画像を描くために、納得のいく表情がとらえられるまで、無数の写真をお母様の春美さんに撮ってもらったそうです。

吉村芳生の新聞と自画像のために、サイズや角度、ちょっとした表情の違いなど、細かい注文を受けながら、嫌になるほど撮りつづけていたお父様の写真。今度は自分が撮ってもらう側になったのです。

新聞と自画像を試みて、改めて作品の大変さ、良さ、意義がわかったとおっしゃっていました。
そしてこれが満足のいく再挑戦となり、自身のなかで、新聞と自画像というシリーズに対する思いが消化されたそうです。

そして今は、父へのリスペクトと、そこから引き継ぐDNAをテーマに、同じ花のモチーフを描いている大星さん。

《親離れ》、SM号、2023年、色鉛筆

展示されたタンポポのシリーズも、DNAをテーマにした作品です。
それぞれの作品を見比べることができるように、吉村芳生氏のタンポポも同じ部屋に展示してありました。

「(お父さまの作品と)一緒に展示することで客観的に見ることができ、似ているようで違う、親子ならではのスタイル実感できる。」
-大星さん

《タンポポ》、SM号、色鉛筆

晩年、大きな作品の制作に取り組んでいた吉村芳生でしたが、息子の大星さんは自身の個展や制作で忙しくなっていました。
家族がかりで取り組む必要のあった吉村芳生の大作。
吉村芳生は、息子にもっと手伝ってほしいという思いを抱くとともに、大星さんを少しライバル視していたようだと、ご家族はおっしゃいます。

ライバル視をしてしまう気持ち、それは、息子を同じ土俵に立つ一人のアーティストとして認めていた証とも思われます。
描くことに対する執念と愛情が、大星さんに受け継がれていることを感じていたのではないでしょうか。

(スタッフT.B)

 

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?