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ため息俳句 ショッピングモール


 日常の買い物に使えるショッピングモールはなら数か所、アウトレットはもある。県境を越えて少し車を走らせて時折行くところなら、更にいくつか。
 それぞれに特色があるのだろうが、自分の目にはみんな同じように見える。どこに行っても、見知らぬ街のようである。空想上の街のようにも感じる。
 どことなく落ち着かないのだ。
 消費にある種の快楽を感じるということは、自分だって身に覚えがある。ショッピングモールはその快楽に身をゆだねなさいと誘惑するきらびやかな装置のようだ。その辺で、疑い深い自分にはどこか信用できないという感じをあたえてくる。
 今日は、利根川を渡ってリニューアルオープン三日目という、全国至る所に展開しているショッピングモールの一つに出かけた。平日月曜日というのに、広大な駐車場はほぼ満車である。
 店内は、リニューアルの言葉通りぴかぴかに磨き上げあげられて、人々はくつろいで買いものを楽しんでいるように見える。
 であるが、その目前の光景がどことなく虚構めいて、自分には見えてくるのだ。そうした脳がこじれそうな感覚を自覚するに及んで「やれやれ、どうも俺はパラノイアかも知れない」とかなんぞと不安がよぎるのであった。

 気づくと連れの女房の姿が見えない、・・・・、「あいつ迷子にならなければいいが」、なんて。

 このショッピングモールもそうであったが、地方都市の郊外にある日、忽然と姿を表したという感じがあった。もう随分前だ。
 旧市街の地元商店にとっては、大きな脅威であったろうが、地方の退屈な若者たちにはただ買い物の至便性だけはなく、格好のレジャー施設になっているのだろう。他方、このごろは行き場のない高齢者の閑つぶしのシェルターにもなっている、そんな感じもある。
 
 自分は、旅行先で地元のスーパーマーケットや市場を覗くのも観光先の一つに入れているのだが、ショッピングモールがあれば当然立ち寄る。そのうえで、先ほどちょっと触れたが、全体としてはどの地域あっても、似たり寄ったり、というより、全国どこでも出店している店は同じである。それが、安心でもあるが、つまらくも感じる。この人工の街は、地域の文化にどんな影響をあたえているのだろうかと、思う。
 
 このショッピングモールは、銀座や新宿の百貨店に似てはいない、たいそう庶民的な商業施設である。もともと、そういう性格のものだ。といっても、いづれにしろ、ここはお金がなければ、本当には楽しくなれないのだかから、それはそれでシビアーなのは変わりない。

 とにかく、老人は新しもの好きなくせに、適応力にかけやすいのである。

あんぐりとショッピングモールは蜃気楼 空茶


 結局、あとちょっと待って、ゴールデンウィークのバーゲンセールまで待とうと、何も買わないで帰宅したのであった。