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警鐘を鳴らすのは簡単なんだよ

世の中、そこかしこで「これは危険」「この状況は危ない」など様々な警鐘が鳴らされている。しかしそれが該当する人たちに果たして届いているのだろうか。

例えば「歩きスマホ」。「歩きスマホは危険です」と言う注意書きはよく見かける。駅の改札口からホームに上がるまでのそこら中に注意を促すポスターなどを見る。しかし肝心の「歩きスマホ」をする人達がそれを見ているだろうか。…見てないよな。だって「歩きスマホ」してるんだもん。階段降りるときに歩きスマホしてる人見ると失礼ながら蹴落としてやろうかと思ってしまうくらい、歩きスマホ人口は多いだろう。

他にも「イヤホンをしたまま自転車に乗るのは交通ルール違反」と言う注意すべき話がある。これについても、実際に自転車に乗るときのルールとして自分で調べたりTwitterでもフォローしている人がそう言う話をRTしないと目にすることはない。運転免許持っていれば知っている話ではあるのだが、運転免許を所有している人がわざわざ自転車に切り替えると言うのは、レアケースとも言えよう。居住地域がどう言う街なのかにもよるだろうし。

そして「これはやるべきでない行動だ」と言う一般向けに個々人が発信したとして、それが該当する人へ届くことはまず少ない。大凡その該当する人はこちらなど見てはいないからなのである。そう考えると、私らの様な無名の一般人如きが警鐘を鳴らしたところで、何の意味も無い様に感じる。

では何故その無駄な行為とも呼べるそれを無名な一般人は繰り返すのか。これは私の感覚からくる経験という形で話をさせて頂こう。簡潔に言うと、『勘違い』から来る行動なのだ。

どの辺りが勘違いなのかと言うと、「自分が警鐘を鳴らす事で誰かの心に響くかもしれない」と言う夢を見ているのである。何度も言うが我々は無名の一般人だ。声の大きい人達とは異なり、こうやって書いているこのnoteだって、誰の心にも響かない可能性は大いにあるのだ。

じゃぁどうして無駄だと理解している行動を繰り返し続けるのか。やはりこれも「夢を見ているから」と言う一言で片付いてしまう。「自分が発信する事で誰かが気付いてくれるかも」「自分が発信しなければ」と言う無意味な使命感。それこそまさに「夢を見ている」と言う事だ。誰も私の言葉に気付きはしないと言うのに。

とは言え私はこれから先も発信することを止めるつもりは毛頭無い。99%の人に「お前の発信は無意味だ」と言われたとしても、1%の人がもしかしたら求めているかもしれない、と言う夢を永遠に見続けていたいからだ。これは単なる願望である。「1%が求めているかもしれない」と断言することは絶対に出来ない。それを保証できる根拠が無いから。

自らが何かしらの警鐘を鳴らすとき、それが99%の人に無意味だと言われる覚悟を、貴方はお持ちだろうか。該当する人に届かないことを、予め理解した上で発信しているだろうか。期待するな、相手は自分の事など見ていない。それを、理解しているだろうか。

私と同じ様に、1%の夢を見続けたいと願えるなら、一緒に頑張ろう。ね。

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