自己分析って、やってなんかあるんか?
心鏡の湖です。
個人的解釈シリーズ(またの名を偏見シリーズ)、今回は自己分析です。
最近では自己分析という言葉をよく耳にしますね。職業に就くにしても、「まずは自分を知ることから」、なんて言います。
けれども、自己分析して何になるのでしょうか? こういうと、相当な暴論なような気がしますけど。逆張りオタクみたいなね。いや、心鏡の湖はまったく自己分析をしなかったわけではないですよ。むしろやりすぎたくらいです。
では、ちょっと考えていきましょう。
自己分析は疲れるだけで無意味!?
まず、価値観は使って初めて価値の変動が発生します。自己分析をして自分の価値観がわかったとしても、それを活用しなければ価値はありません。一喜一憂しただけで終わりです。活用されないまま、忘却曲線に沿って自己分析の内容は消えていきます。それが行く末の大半です。
仮に何かしらの結論に至ったとしても、価値観に正解も不正解もありませんから、いくら自己分析をしたところで答えは出ません。ブラッシュアップとして自己分析を繰り返しても、やはり答えは出てきません。日本の会議は無駄とよく言われますが、自己分析も似たようなものです。
「答えのない問題」をひたすら予習しても何も得られないのです。最適解を得られたとしても、答えには程遠いものになるでしょう。最適解で得られた価値観はあまりにも抽象的で、社会の固定観念から乖離し過ぎて、10円のジャンク品にすらならない「脳のリソースを食い散らかす虫」になります。もはや、疲労によるストレスによって生じる浪費のほうが多くなります。金銭的な観点で言えば自己分析は明らかに損です。時間でも損。コスパの悪い作業なのです。
問題は本当に問題になったら解決すればいいのです。そして解決した問題に自己分析で導いた価値観が入り込む場所はありません。解決したときにすでに価値観が入っているのです。それを掘り起こしても別に輝きはしません。
何もやらなくていいのです。自己分析をやればやるほど病みます。
数少ないですが、こういう記事もあります。
ここで、仏教の考え方を引用します。
これを読むと、自己分析を妄想と捉えることができるのではないでしょうか? 自己分析は主観をもとに行うものです。そのため、理論的な情報として整理されることはなく、それこそ「妄想そのもの」なんですよね。間違った分析によって気を病ませるとか、心を暴走させるとか、そんなことが起こり得ます。
そして、実際自分がそんな状態だったという、そういうオチです。
それと、MBTIは再現性の低さから疑似科学として扱われることが多いです。MBTIで検索している人の多くが拡大解釈をして気を病ませているように見受けられます。自己分析なんてしなくていい、そう言いたいのです。変に背伸びしたり卑屈にならなくてもいい、フラットな心でいられると少しは楽に過ごせるのではないでしょうか。
だべり
こうね、最近ではいろいろと自己分析の書籍があるじゃないですか。あれらをやると大抵の場合、脳のリソースを削るだけで有益性はありません。そもそも自己啓発本ってものはマーケティング色が強すぎて本当の意味で自己啓発にならないんですよね。著名人が書いた武勇伝とか、外国の原典を翻訳して文章が羅列されただけの本とか、だいたい自尊心が下がるんですよね。それこそ引用にもあるように妄想につながってしまうのだと。本当の意味での自己啓発って、エビデンスで固められた内容ではなく、ブッダの教えなのかもしれませんね。
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