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#88 褒められた大人でも娘でもないけれど、私が私でよくなるための始動


私の手元に1999年8月の消印の日本の母からの葉書がある。昔の手紙類を整理していて見つけたものだ。

今は八十を超えた母が、まだ短歌を詠み始めたばかりの頃詠んだ歌が二首書かれている。

実家いえ恋しと 声乱し泣く 異国のを なだむる電話の 我もせつなし
異国のよ 親や郷里が恋しとて 己れこらしめ 二児をまもれよ

葉書の宛先は英国に来たてで初めて借りて住んだ家の住所になっている。

ちゃんと宛名は英文字で横書き、葉書1/3のところに縦書きの日本語でメッセージを書いていた母は大したものだと思う。私がもっと驚いたのは、22年前の母が「インターネットを通じて日本人を探し、友人が出来ますように」と書いていたことだ。

未だにインターネットとは無縁なくせに、あの頃こんなことを私に書いていたと知り、ちょっと胸がギュッとなる。良く分からないなりに私のことを考えてくれていたのだろう‥‥



思えば母にはどれだけ泣いて電話したことだろう。


初めて泣き言をいって困らせたのは東京の看護学校に居る時だった。病棟実習の朝、看護師さん達から次々と浴びせられる質問が怖くて怖くて、寝ずに看護計画をまとめる。それでも絶対的に経験が足りないのだもの、自分の頭で思いつくことには限界があり、そこを質問で突かれる。

その場で答えられなければ、患者さんを任せてもらえず、帰って看護計画を立て直して出直しなさいと言われる。

もちろんプロの真剣さゆえ、と今なら理解も感謝もできるが、ビビリな私は、実習の朝のご飯を涙なしでは食べられなかった。

母は「あの時は、辞めて帰ってくるんじゃないかと心配した」と言う。

まあ二十歳はたちそこそこで親に泣きつくのはあってもいいか‥‥ だけど私は三十も優に超えて夫と子どもがいても、母に泣きついていたという証拠を母の短歌が残している。

そして五十を超えてまたど~んとでかいのをやってしまった。


そう。不安症状が出て、休職したりしながらも改善することはなく、結局二年前に仕事を辞めた。先の予定は全くなかった。ただ英国の社会から私は逃げたかった。

もうここに居たくない。日本に住みたい。日本に帰る‥‥

そんなことをずっと考えていた。母に電話しておんおん泣いた。

中高年の女が、老いた母親に心配をかける。褒められたもんじゃない。

『親にだけは心配をかけたくない』という人がいる。自分が癌になっても交通事故で入院しても親には絶対に知らせないという友人も見てきた。

両親への愛情表現としては崇高な気がする。

けれども私は自分の子どもが危機を迎えていたり、大変な局面には、包み隠さず教えてほしい。側にいればともに手を取り合って、離れていれば心だけでも寄せ合って一緒に泣きたい。‥‥祈ることしかできなくても。

私にとって、本当につらい時や本当に悲しい時にみっともないほど泣ける相手は、世界にただ一人しかいないのだから仕方ない。うちの母はどう思っているかは知らないけれど‥‥


人生はつまるところ帳尻が合っているという気がする。

迷ったり困ったりしないので、今がいいとか悪いとか考えもしないのが順調な時だ。だから不調に陥ると『なんでこんなことになってしまったんだろう‥‥』と考えてしまう。

だけど、きっとそれは人生のほんの一時いっときを見ているに過ぎないのかなと思う。「長い目で見れば」なんていうが、神様からの視点で見ることができたならばきっとわかる。

潮が満ちたら、その後は引いていくように、しあわせも苦しみも満ちたり引いたりするのだ。

とにかく一度日本に行って、夫が21年ぶりに見る日本をどう感じるのかを見なければ始まらなかった。そんな計画をしていた矢先に世界に疫病が蔓延した。予定していたその年も、一年後の今年も、私たちの『日本を見て感じて』今後を決めていこうという計画は頓挫したままだ。

22年前に「己れこらしめ二児を護れよ」と言われた私は、後に儲けた三児目も巣立ってしまい、もう護らなければならない者がいない。

異国の娘は糸が切れてしまった。

なのに日本へ泣き帰ることができずここで二年が経った。

2020年のロックダウン最初の年は、英国では一日一回の散歩だけが許された。そこで今まで見過ごしてきた野草を摘んで食べる楽しみを知った。毎日、新鮮な食材を見つけて料理し、発酵させ、保存食にしたし、畑を作って野菜も育てた。

その時に足元のしあわせを見つけたのではなかったか。
この土地がどんなに自然豊かで美しかったかと、感謝が湧いたのではなかったか。

だがそれも二年目になると感動がなくなった。季節が二巡しようとするのに世界が変わり映えしないことに失望していたのかもしれない。

6月に18歳の次男が日本に行くことになった。自分が一番行きたい日本に末っ子を送り出し、自分が居たくない英国に残るってどうなんだろう‥‥内心そう思った。

ついて行きたいくらいだったが、私が側で支えるべきは、自立のために旅立つ息子ではなく夫なのだと自分に言い聞かせる毎日‥‥
残される寂しさに打ちひしがれるすんでのところで、家を離れていた長男が戻ってくることになった。アルバイトをしながら求職を続けて、ようやく願った以上のオファーが舞い込み、夢が実現する様子を私たちも側で見てきた。引き続く困難と落胆を経てきたからこその、家族にとっての明るいニュースだった。たとえそれが長男がここから居なくなることを意味していたとしても‥‥

秋になり長男の新たな出発たびだちを見送った。

こうして子どもは一度巣立っても、いつでも頼って戻れる場所があることが大切なのだと知った。

そうしたら、『ああそうか、私はここ数年ずっと両親のもとに帰りたかったんだ』ということが胸に迫ってきた。老いた親を介護するんじゃない、甘えに行きたかったのだ。ただ疲れた心を休めたかったのだと気づいた。

いい歳した我が身の勝手さに自嘲したいが、もしも私が親ほどの年齢になっても子どもの誰かが心折れた時に「会いたい」と思ってくれたらどうだろう‥‥ きっとそれほど嬉しいことはない。

仕事ができなくなった私を夫は黙って支えてくれている。英国で私にできることがあるのかは、まだわからない。

けれどひとつだけわかったことがある。問題は英国の社会ではなかった。私の問題は、Contentment (自分が自分であることの充足感) を失っていたことだ。それが欠けたままなら、日本に住んでもまだ私は何かを探し続けるのではないかと思う。

ひとまずそこに気づけてよかった。2年もかかってまだそこかい‥‥とツッコミたい。

でも私は笑顔だ。


中国の諺に『もしも一時間幸せになりたければ昼寝をしよう』というのがある。『一日幸せになりたければ釣りに行こう』、『一か月幸せになりたければ結婚しよう』と続く。

私は結婚しているし、望めば昼寝の時間も釣りをする時間もある。

足りなかったのは、最後に続く『一生幸せになりたければ誰かを助けよう』ではなかったか。そしてそれはとても私らしいことだったんだ。

私は自分が受けた傷のせいで他者への愛が枯渇していたのだと思う。自分の中から泉のようにこんこんと湧き出て、決して枯れない愛がほしい。

今ちょっとだけ、誰かを助けるという小さな喜びを紡いでいこう、と私の心が動き出している。

小さな小さな一歩だけれど、

私は今笑顔だ。





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