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「ほんとうの自分」を探す旅は、いったいどこまで続くんだろう。

「本当の自分になれる」
「自分らしく働く」
「ありのままの私」
それってどういう意味? どういう事?
自分の言葉で、説明できる?

……という問いを、先日参加したさわらぎ寛子さんの講座で頂きました。

撃沈、という言葉がぴったりなほど衝撃を受けました。
この言葉を安易に使おうとしていた自分に気付かされて。


自分のサービスページにも「ほんとうの私と繋がる」とか書いちゃった事があるけど、私にとって「ほんとうの自分」ってなんだろう?
「ほんとうの自分」で「自分らしく生きる」って、どういう事だろう?

頭を掻きむしりながら上記の言葉と向き合って、すっかり煮詰まりました。きっと生え際が1ミリは後退したに違いない。最近鏡を見るのが怖いのに。頭の中を整理するために、つらつらと書き出してみたいと思います。私にとっての「ほんとうの自分」そして「わたしらしく生きる」事について。

◇  ◇  ◇


最初に「ほんとうの自分で生きよう」って言葉を目にしたのは、一体どこでだったろう。もう記憶は定かではないけれど、その言葉にとっても惹かれた事だけは覚えています。

多分、私はその言葉に感動したんだと思う。

今までの私は、ほんとうの私じゃなかったんだ。だからこんなに幸せじゃなくて、みじめで、毎日が灰色なんだって。ぱっと目の前に光が差し込んだ、そんな風に感じたんです。


それからは「ほんとうの私で生きる幸せ」を説く人たちの言葉に従って、絶対にやらなかったような事をいろいろとやりました。

例えば、
値段を見ないでときめいたものにお金を使う。
我慢して言わなかった言葉を口にしてみる。

会社や同僚に遠慮して取れずにいた有休を、自分の為だけに取って自由に過ごす。笑われるからと履かなかったスカートをはいて、無駄だと諦めていたお化粧をして、ホテルのラウンジでお茶を飲む、なんて事を。


 ◇  ◇  ◇

そうやって行動する中で、変わったものも確かにあります。

お給料が倍増しました。
住む家のランクが上がりました。
お総菜を買って、家事の手抜きをするだけの余裕ができました。
可愛い服を着る事を、自分に許せるようになりました。
以前は出来なかったような主張も、会社や実家で伝える事が出来るようになりました。


でも「ほんとうの私」を生きているって実感は、手に入らなかった。
なくしてしまう怖さや、まだ何かが足りないっていう欠乏感に追われるようになった。


お金も地位も、例えば会社が不景気で倒れてしまえば、一気に失われてしまうもの。自分よりきれいな人はたくさんいるし、セレブな生活も上には果てが無い。

人間関係にしたって、確かに以前は遠慮して言えなかったような事も言えるようになった。けれど、それは私の気持ちを押し付けているだけかもしれなくて、嫌われるって怖さは相変わらず心の片隅にあって。


引き寄せのアファメーションを、感謝ワークを、現実を変えるためのブロック解除を、「失わないため」「もっと良くする」ためにしながら、ふと思ったんです。


あれ、私、本当に幸せになったの?
これが私の望んでいた「ほんとうの私で生きる幸せ」なの?
なんでこんなに毎日、焦っているの?

ここに至ってようやく、自分の望みに疑問を持つようになりました。
私はいったい、何が欲しかったんだろうって。

私が望んでいたもの。それは自分が自分であって大丈夫だっていう安心感。

どうやらこれは、私が望んでいた「ほんとうの私で生きる事」でも「自分らしい人生」でもなかった。
じゃあ「私らしく生きる」ってどういう事だろう。
どんな私になれば、私は幸せだと思えるんだろう? 

この問いが、わたしがこれからからやりたいと思っていることに繋がっています。なのに、安易に「ほんとうの私と繋がる」とか書こうとしていた。うわぁ、痛い。痛すぎる。まさに撃沈、です。

欲しいと願っていたものを手に入れたら、湧いてきた「失う怖さ」と向き合いました。

”私はいったい、何をそんなに怖がっているんだろう”
”失ったらどうなってしまうと思っているんだろう”

答えがでなくても問い続けているうちに聞こえてきたのは、「何も持っていない私のままじゃ、誰にも愛されないし、存在している価値が無い」という小さな声でした。

そうか、私にとってお金とか、会社からの評価とか、可愛い服とか、キラキラした人たちとの繋がりって、「それを持っている事=生きる事を許されるための価値の証明」だったんだ。


なんて事はない。
私はただ、生きていて良いって安心したかっただけなんだ。

それを「ほんとうの私」という言葉にくっつけて、
「ほんとうの私じゃないから、いつも不安なんだ」「ほんとうの私になれば、安心して生きていられるようになるんだ」ってそう勘違いしてただけなんだって。

あんなに欲しかった、「きらきらした(ほんとうの)私」が欲しくなくなった。ブランド品を身に着けなくても、ホテルのラウンジに行かなくても、お金がたくさんなくても、私は今、生きている。それで良いんじゃないかって思えるようになった。


「ほんとうの自分」じゃない自分なんて、どこにもいないんだと思う。


だって私は、ずっと私を生きてきている。

ほんとうの私探しの旅に出て、引き寄せをするための願い事を書いていた時も、勇気を出して言えなかった同僚への文句を口にした時も、きらきらな人の仲間になるために一生懸命背伸びをしていた時も。今、こうしてnoteに向かってうんうんうなりながら、自分の言葉を絞り出そうとしているこの時も。

いつだって、私は私だった。
ずっと私のまま、生きていた。
にせものの私で生きていた瞬間なんて、一瞬だってない。
今までも、これからも。

◇ ◇ ◇

改めて、冒頭の問いに答えを出そうと思う。

私にとっての「ほんとうの私」って、生まれてから今までの、全部の瞬間の私のことだ。

「ありのままの私」って、悩んだり、迷ったり、時には周りのために無理をしたり我慢したりする、時には噓をついたり自分の気持ちを取り繕ったりする、色々な私の事だ。


決して、相手の気持ちも考えずに自分の言いたい事を言って、やりたい事をやって我慢しない私、ではない。
なんでも好きなように願いが叶って、欲しいものが手に入る私、ではない。綺麗な気持ちだけで生きている私、でもない。

私が私でなくなる事なんて、一瞬もない。



じゃあ、なんで「ほんとうの私」が欲しくなるのか。「ほんとうの私を生きよう」って誘い文句に惹かれるのか。

そこにはきっと、傷ついた自分の心があると思うんだ。
自分の今を否定したいくらい、何かに傷ついていたり、悲しんでいたりするんじゃないのかなって。



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