おかれた場所で咲きたがらない私たち
わたしたちは何も知らない。だから、毎日必死になってその自分を創り出そうともがいている。
こう考えてみたことはないだろうか?
何故、こんなに必死になって”私”は、”私なるもの”を作る事に奔走しているのか?と。
必死になって私たちは毎日、自分なるもの、つまりは擬態を作っているに過ぎない。
自分の事を人間であるとそうおもっているから、その人間によせた自分を必死で作り出そうとしている。人間のこうした行為とは本当になぞだ。
人間であるのに、人間であろうと必死に努力する。人間である事を受け入れようとするより何よりも、その人間を自分で作ろうとする。
作る必要なんてない。だってもうすでにここに自分は存在する。でも、そのここに在る存在が不確かなため、わたしたちは、その不確かな自分に自分で都合のいいものをくっつけて、その自分に好きな様に肉付けをして、その出来上がった自分を自分であると謳っている。
人間とは不思議だ。どうして足すことしか考えないのか?どうして引くことを考えないのか?
皆、まっすぐに一直線に前だけを見て進んでいく。それがあたかも正解であるかのように。
前に進む。自分で何かを考え、それを実行していく。それは表面的にはとっても聞こえのいい言葉の様に感じるが、果たしてそれが正解といえるのだろうか?
世界が私たちを作っているという考えもある。私たちがこの世界を創っているなんて言う傲慢は捨てるべきだと考えたりする。
私たちはこの世界をつくる1つの細胞みたいなもので、その全体の内の1つの細胞である私たちが、自分のエゴで好き勝手なことをしているのが今の人間かもしれない。
私たちが1つの花であるならば、その花はここで咲くべき存在だった。でも、その花には”わたし”という意識があり、意思があり、その花はここで咲くことを拒否し、別の自分にとって居心地のいい場所で咲こうとした。自分のエゴで、自分のあるべき場所から離れた。
これが何を意味するのか?
自分が置かれた場所で咲くことを拒んだ花は、この世界の秩序を乱したという事になる。
それぞれが、おかれた場所で咲くこと、花開くことを私たち人間は目指すべきだった。でも、人間である私たちは自分たちの置かれた場所を嘆き、嫌い、その場を捨て離れた。
これはある意味、自分に課せられた責任から逃れる行為に等しいと考えたりする。自分の置かれたその場で私たちは咲くべきだった。それがこの世界の秩序であるならば、そこで花咲くことでこの地球の制御システムが上手に動くのならば、私たちは自らの置かれた場を離れるべきではなかった。
新たなフロンティア、これを目指すべきではなく、ただ私たちは自らがおかれた場所で、まずはその自分という花を十分に咲かせることに従事すべきだったのかもしれない。
自分を十分にそのおかれた場所で花開かせることが出来て初めて、私たちは、新たなるフロンティアに向けてその一歩を踏み出すべきだったのかもしれない。
何もかもその全てが誤算で、今世界の均衡は大きく崩れ出した。
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