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日々を丁寧に生きることの大切さを学んだ

ふと気がついた。

自分がいつからか、自分の人生を丁寧に生きる事をやめてしまっていたこと。

別にいいやといって、いろいろな事が適当になって、それが徐々にたまっていって、恐ろしいことに、すべてが自分にとっての当たり前だと思うようになっていたこと。

何もかも、当たり前で生きていた。

だから、感謝なんてしたことない。

すべてが当たり前のように手に入るこの世界の中にいて、わたしは人間として一番大切なものを失ってしまっていた気がする。

それは、感謝だ。

自分に与えられているすべて、これらに感謝して生きるということ。

この人間として最も尊いとされる生き方、これをわたしはいつからか完全に捨ててしまった、というか、忘れてしまっていた。

何でもかんでも自分一人の力で生きているとそう感じていた。

この世界は自分次第でどうにでもできるんだという傲慢性にわたしは陥っていた。

そのことに最近気がついた。

最近亡くなられた坂本龍一氏が最近妙に気になり、彼の曲を聴きながら、彼が生前残してあったインタビュー記事を片っ端から読みあさった。

それで気づかされた。

音楽というものからも、いつからか自然と自分が離れてしまっていたことにも気がついた。

自分の中にある芸術性、それを自分で殺してしまっていたことにも気がついた。

毎日が苦しくてたまらなかった。

でも、それは自分の中の芸術性を外にある公共性に合わせて自分が形作ろうとしていたからだという事に強い衝撃も受けた。

わたしにとっては何か深い眠りから覚めたような強い感覚があった。

何を自分はしていたのか?

自分を殺して、自分の表現を殺して、そして万人受けするものを書こうとしていた。

わたしは人間の成人発達理論という美しい理論を書いている。これは全く新しいものであり、そのすべてはわたしのあふれんばかりの創造性によって紙の上に描き出される。

多くの人はわたしの書いた理論を美しいとは言わない。

でも、わたしには、この自分で書き上げる成人発達理論、メタ理論が、きれいな芸術作品に見える。

わたしは芸術をしている。

そんな事に気づかされた。

芸術、それは批判を恐れていたらできるものではない。

これは坂本龍一の言葉だ。

芸術、それは誰かに評価してもらうために、作るものではない。

誰かのために芸術を作るなら、それはもうその時点で真の芸術とはいえない。

芸術とは、他からの批判をもろともしない。

芸術とはただそこにある。

それを誰がどう評価しようと、芸術はただそこにひっそりとある。

ただ自分の中からあふれてくるもの、自分の中から出てきて勝手に自分の手を通して、形つくられていくもの、それが芸術。

わたしはようやくその事に気づけた。

いいも悪いもない。

新なる芸術とは、ただそこに現れでるもの、ただそれだけ、

何の意思も介さない。

ただ在る。

それが芸術。

日々を大切に丁寧に生きる。

それで初めていろいろな事が当たり前ではないことに気づける。

何もかもあることがいかに素晴らしいことなのか?

何に対しても心を込めて。

そう教育されてきたはずなのに、今のわたしは何をするにも丁寧に、心を込めてということができなくなっていた。

心を込めて、どんなささいなことでも、丁寧に。

物があふれかえり、いつでも何でも代替可能なこの現代において、わたしたちは、何事も丁寧に扱う事を忘れてしまったようだ。

丁寧に大切に、もっといえば、その物に対し最大の敬意を持って生きる。

これができたとき、わたしが今書いている理論も本当に美しい物へと昇華するとそう信じている。

丁寧に、それは自分自身にもいえる事。

もっと丁寧に自分を生きよう。

そう思って生きれば、自分を大切にできるし、その自分を優しくいたわる事もできる。

わたしは自分を傷つけてばかりだった。

それは自分を丁寧に扱う事をいつからかやめてしまったから、

自分にとって自分とはそんなに丁寧に扱う物ではないとおもい、わたしはずっと自分を虐げ生きてきた。

でも、坂本龍一氏に教えてもらった。

彼のひくピアノは、音一つ一つに対する敬いがある。尊敬がある。音があることに対する最大の感謝がある。

彼の指ではじかれ出てくる音はとても優しい。そして何よりも深い慈愛に満ちている。

彼の曲を聴いているだけで、いかにこれまでの自分の人生を暴力的に生きてきたかを深く反省させられた。

彼が鍵盤に丁寧に丁寧に、その指を優しくおくように、わたしも自分に与えられた日々を丁寧に丁寧に一つ一つ生きて行こうと思う。


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