車窓

  私の人生が、些細ではあるが、ある時を境に変わってしまって、二度と元に戻らなくなった、その出来事を書いて置こうと思う。
  今はもう七年も昔になるがその日、私は大多数の人がそうするのと同じく、列車に乗って、会社から家に帰るところだった。ロングシートに座っている私の右斜め前に、三十前後の女が立っていた。私は二つ、訝しんだ。一つ、私はその日、体をずらすのも億劫で、左端から二番目の席に座り、両隣が空いていた。彼女はそのどちらにも座らず、私は四十過ぎた男の悲しさから、体臭やら、風貌やら、もしかしてスーツを着た肩に、フケでも落ちているのかとぼんやり考え始めた。二つ、彼女はまさに取り憑かれたように携帯端末を凝視し、その指が飛んで行ってしまうのではないかというくらい、猛烈に画面をフリックし続けていた。疲れた頭にも、何が彼女をそこまでさせているのだろうという疑問が浮かんでいた。
  震動と、車輪から伝わる音が変わり、列車は暗い夜の川を渡り始めていた。春先のことで、外気は快適ささえ感じず、何もかも消えてしまったようだった。座席は大概埋まっていて、顔を動かさないで見る限り、立っているのは私のそばの女性一人だけだった。彼女は私の斜め向かいで、激烈に指を振るっている。勝手にすればいい。私は本を読む気にもならず、携帯を取り出す気にもならず、ただ頭を、前方の窓ガラスに向けて据えていた。
  初めは彼女のイヤホンが光ったのかと思った。なぜそう思ったかは分からない。何か目に入るものがある。私は顔を少し動かして、彼女の体を横切り、横に長い、向かいの真っ暗なガラスの端を見た。
  そこには、走る列車と併走するようにして、真っ白な光る鳥が飛んでいた。窓枠のなかで、ほとんど位置も変えずに並んでいる。立体的な光が、羽ばたいている。私はあっけにとられた。やがてその鳥は、するすると列車の速度を越し始め、彼女の後ろ、窓枠の上へと消えていった。間髪いれず、おびただしい数の光る鳥が、その一羽の鳥を追うように、黒い窓ガラスを真っ白な光の群れで覆いつくした。
  初めの光に気づいた時のように、前方の椅子に並んでいる乗客たちの頭上を見ると、明かりを返す暗い窓だけが残っていた。外には何も見えない。私は目の前の乗客を見渡した。誰一人として、目が合う人は居なかった。私は身を乗り出して、横に座っている人らを見た。全員が全員、眠り込むか携帯をいじっている。私のような表情をしている人間は、どこにも居ない。私は目の前に立っている女の顔を見上げた。ややあって、彼女はこちらに向いた。俊敏な指の動きを一瞬止めて、思いっきり嫌そうな顔をしてこちらの目を見た。
  次の駅でドアが開いたとき、私は思わずその列車を降りてしまった。私の期待に反して、他に降りた客は一人も居なかった。私は誰に訊くことも出来ず、夜気の漂うホームにぽつり、取り残された。
  それ以来私はずっと、列車のなかで本や携帯の類いを見れなくなってしまった。私は今もまだ、車窓の外に見たあの時の光景を、どうにかしてもう一度見たいと思っている。

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