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社会不適合者という栄誉 (芥#3)

written by 芥田ほこり


▶ 社会不適合者としての自覚

突然だが僕は社会不適合者だ。
僕に気を遣ってかそれとも僕のことをちゃんと見ていないだけなのか「そんなことは無いよ」と言ってくれる人も一定数はいるけれど、面と向かって「そういうところは社会不適合者だね」と指摘してくれる正直な人も何人かいる。もとより、指摘があろうがなかろうが自分自身が社会にフィットしているという感覚が全くないので、社会不適合者なのはほとんど間違いないと自分でも思う。集団に属すればいつも周りに迷惑をかけてばかりで、かといって人間である以上は全てのコミュニティから抜け出して仙人のように一人で生き抜いていくのも難しいので、申し訳なさを心に抱えながらできるだけ目立たぬよう息を潜めて生きている。
別に無個性なわけではない。マイペースに生きると個性が出過ぎてしまうのだ。そして不和が生まれる。出る杭は入念に打ちのめされる世の中だからできるだけ悪目立ちしないように頑張ってはみるけれど、そもそもが変な人間なので周りに滑らかに適合していくのはなかなか難しく、難し過ぎる人生の難易度に困惑する。

普通の人が当たり前のようにできて難しいとは思っていない部分で、僕らは人知れず躓いているのだ。

普通の人が自力で朝起きて、時間通りに学校や会社に行って、授業や仕事をこなして、友達と一緒にご飯を食べながら喋って、帰宅後は家の掃除でもして、次の日に支障が出る前に夜更かしを切り上げ床に就く時、そのような一日を当たり前のように過ごせない人間がいるとはつゆ考えてはいないだろう。
しかし僕らは、少なくとも僕は、自力で朝起きるのがものすごく苦手だし、時間を守るが極端に下手だし、仕事中の集中力は10分と持たないし、社交性が絶無だし、自主的に家の掃除なんてできないし、たとえ次の日が早くても夜更かしを全然やめられない。文字に起こすと我ながら情けない話なのだが、有り体に言ってしまえば、僕は全くもって"人間に向いていない"のだ。

▶ 社会への不適合から生じる強さ

ここで一旦、疑問を投げかけておく。

Q. 今の社会と、社会不適合者が全くいない社会ではどちらの方が好ましいか?

答えは二択なのでどちらかに決めかねることはないだろうが、正直これは、どちらが正解というわけでもない問題だったりする。大半の人は、当たり前のことができない人間よりもできる人間の方が優れているので、当たり前のことが当たり前にできない人がいなくなるのならそれに越したことはないと考えるはずだ。それは正しい。何の疑いようも無くそういう発想に至れる人は、僕から言わせればすごく立派だ。何故なら、きちんと社会の常識にマッチしている人でないと自信をもってそうは断定できないだろうから。

しかし、本来は透明なはずの当たり前の壁に普段から当たりまくっている僕からすれば、社会不適合者もまた一種の逸材と言える。

先に断っておくが、別に開き直っているわけじゃないし、無能な己の現状を自己弁護する気も毛頭無い。「二重規範は回避せよ」の項目で詳しく後述するが、社会不適合者は社会の中で生きる選択をする限り社会に適合する努力を怠ってはならない。この事実はどうあっても揺るがない。
それではどうして「社会不適合者は逸材」なのか。それは彼らが普通は誰も気にも留めないようなことと長く向き合っている人種だからである。少し誇張するならば「見えない壁が見える」という特殊能力を秘めていると言える。

我々はそもそもが社会の腫物……いや、もっと言えば社会の癌みたいな存在なので、否が応でも我々は癌という病気の本質と真面目に向き合わざるを得なくなる。その結果、病気に対して当事者意識を持つことのない精神健康優良児よりは常識に対するアンテナが格段に研ぎ澄まされるようになる。異常から見た正常は正常ではなく異常に映るのだ。
そして、その人の人格の土台となる"常識に対するバランス感覚"が狂えば、自然とその人の感性はおかしなものになっていく。ニュートラルに言えば特殊に、よく言えば特別に、悪く言えば特異になっていく。その状態は良くも悪くも社会に不適合な状態だと呼ばれる。

つまり、コモン・センスが無いことで最終的にはその人のありとあらゆるセンスがアンコモンになるのだ。

まともな人もそうでない人も、わざわざ例を引かずとも言わんとすることはわかってもらえるのではないかと思う。社会不適合者はいつだって変わり者だ。どこか根本的な部分がずれている。だから結局は全部が噛み合っていない。人間というより"人間の皮を被った何か別の生物"という雰囲気をいつの間にか醸し出している。あるいは実際にそうなのかもしれない。人間の集合体である社会のことがよくわからないのなら、順当に考えてたぶん人間ではないのだろう。

そんな言い方をすると、僕と同類の仲間たちは傷付くかもしれない。
しかし、僕がここで言いたいのは「我々は人間の土俵にさえ立てない駄目な存在だ」ということではなくて「人間には本来持ちえぬ感性を持った状態で、形式上は人間をやらせてもらえている自分の境遇をもっと喜んでほしい」ということだ。あなたのぶっ壊れた感性は、あなたにしか持ちえぬ強烈な個性だ。それを最初から所有できていることは明らかな強みのはずなのに、多くの人は「社会不適合」というレッテルを貼られるショックで目が潤み霞んで自分の有利な境遇にほとんど気が付けていない。まさしくそれは、宝の持ち腐れという状況なのである。

▶ 強みを活かす条件

ところで、社会不適合者という言い方はちょっと感じが悪いのでやめることにしよう。ここからは社会不適合者のことを「はみ出し者」と表現することにする。字義通りには社会からはみ出しているからなのだが、ここでは個性という才能が既存の枠には収まり切らないという意味も含意したポジティブな言い回しとして用いる。

Q. はみ出し者はどのようにして社会を渡り歩いていくべきか?

私は普通だ、という人もせっかくの機会なので是非考えてみてほしい。これから先の人生で、はみ出し者と付き合っていく際の考え方が変わるかもしれない。
もちろんはみ出している当人たちは言われなくても一度は考えたことがある話だろう。……え? 自分のことなのに考えたことが無い? まあ、それはそれではみ出し者らしい話ではあるので「当たり前のことをしない自分ってやっぱり不甲斐無いんだな……」などと塞ぎ込んだりせず、今からでもじっくり考えてみることにしよう。

ここからは再び僕の個人的な意見を述べる。人それぞれどう感じるかは違うだろう。はみ出し者でない人でも、共感する人がいたり拒絶したりする人がいる意見だと思うし、同じはみ出し者にでも全てを納得してもらえるとは思っていない。

先ほど、はみ出し者のことを「人間には本来持ちえぬ感性を持った状態で形式上は人間をやらせてもらえている」存在だと表現したが、この状況をわかりやすく考えるためにアンデルセンの童話『みにくいアヒルの子』のモデルを取り上げることにする。この話の内容は「アヒルの大群に混ざって育てられた一匹の雛が、一匹だけ異なったその姿から醜いと蔑まれ自分の居場所を無くし、最終的には縄張り意識が強い白鳥の群れに飛び込んで殺されることを決意するが、群れの中で自分が白鳥であることに気付きアイデンティティを確立する」というものである。
今、はみ出し者は白鳥である。しかも、アヒルの群れの中で自分もまたアヒルなのだと錯覚している悲しい白鳥である。自分は確かにアヒルだが、特別に劣っているのでアヒルの基準から"はみ出してしまっている"と信じて疑わぬ白鳥である。そんな鳥が幸せになるためには同じ白鳥の群れに飛び込み、己の正体に気付けば良い。しかし実際の社会において、白鳥たちはアヒル界の中にまばらに点在している。白鳥だけのコミュニティというのものは存在していない。アヒルを自認する白鳥が飛び込む別天地は無い。そんな状況で白鳥が幸せになるためには、どうすれば良いか?

せめて「自分はアヒルの中で生きる白鳥なのだ」と強く自覚しておくべきだろう。

確かに自分は周りの誰よりも劣っている。アヒルの基準には悉く当てはまらない。要するにアヒルには向いていない。しかし、それも当然だ。何故なら自分はそもそもアヒルではないのだから……。そういう思考ができるかできないかの違いは非常に大きい。何故ならたとえ孤立無援でも、四面楚歌よりは何倍もましだからだ。
そうすれば「アヒルらしさ(=人間らしさ, 常識)が無い」という欠点は「(白鳥らしさとは言い表せずとも)"何からしさ"がある」もっと言えば「自分らしさがある」と肯定的に捉えることができるようになるはずだ。アヒルのようにガアガアという鳴き声を出すことはできず、可愛いアヒル口と愛らしい小柄なフォルムで人間を沸かせることもできないけれど、コォーコォーと甲高く鳴くことができて、白く大きな美しい身体で人間を魅了することはできる──これを白鳥らしさと形容するように、集団行動がてんで駄目で、みんなが爆笑している場面で自分だけ愛想笑いをしているような壊れた感性を持っていたとしても、いつでも自然体で、他の人が見いだせない部分に面白さを見出せる感性を持っていると思えば、それが他ならぬ自分らしさなのである。だから「みんなのようにはできない」ことを嘆くよりも「自分にしかできない」ことを誇るべきなのだ。

▶ 人間の定義は曖昧

そのように主張すると「詭弁だ」という意見が出てくることは容易に予想される。アヒルと白鳥は生物学的に完全に異なった存在だが、はみ出し者は人間には違いないので人間らしい振る舞いができないことの言い訳にはならないだろう、と。

Q. 人間の定義とは何か?

しかし、そもそも人間の定義とは何だ? それは言葉の上で恣意的に区別されているだけの意外に曖昧なものではないだろうか。

生物学的に同じかどうかで全てが決まるのなら、イルカとクジラを別物扱いするのは間違っていることになる。これらの動物はただ大きさだけで区別されるからだ。それでは見た目で判断することにすれば良いではないかと思われるかもしれないが、カニの形をしたタラバガニはヤドカリの仲間だし、ヒトの形をしたチンパンジーはヒトではないことを思えば、見た目で全てを決めることも実は難しい。

ここに剣玉のプロがいたとしよう。そして隣には小さい頃から剣玉に慣れ親しんできた青年がいる。前者をプロと呼び、後者をアマと呼ぶ根拠は何だろう? 恐らく多くの人は熟練度だと言うだろう。剣玉歴という人もいるかもしれない。しかし、いずれにせよそれらは生物学的な区別でも見た目による区別でもない、もっと曖昧なものなのである。熟練度と言っても、人によって上手いと感じるレベルは異なるわけで、明確な基準というものは存在しない。仮に剣玉検定というものが設けられ、それにクリアすればプロだとはっきりと規定されているのだとしても、その検定自体が誰かの恣意的な基準で定められたものに過ぎないから、プロとアマの間には絶対的な線引きなど無いと言うことができる。

私たちも同じである。人間である者とそうでない者を区別する絶対なルールが存在しているというアイデアは、実は幻想に過ぎないのだ。

だから、社会からはみ出した者が自身を非人間だと信じても別に構わない。そもそも、自身が何者であるかを規定するのに誰かの許可なんているのだろうか? 人様を「非人=人でなし」扱いするのはご法度だが、自分のことならばどう思おうが別に誰の迷惑にもならないのである。自身を白鳥だと信じてやまないアヒルがいたって誰も直接的な被害は被らないし、見方によってはむしろちょっと微笑ましいくらいではないだろうか。

▶ 二重規範は回避せよ

ここまで僕は、はみ出し者の個性を称えるようなことばかりを連ねてきた。もしその言葉に励まされた白鳥がいるならライター冥利に尽きる。……というより、むしろ僕の方が感謝しなければならないのだと思う。正常を欠くが故に異常しか書けない僕のぶっ壊れた感性を、僕にしか持ちえぬ強烈な個性として認めてくれたことになるのだから。
しかし、自分の特異性を全て自分の都合の良いように捉えてばかりいるのも褒められたことではないという点だけはくれぐれも自覚しておいてほしい。

自分がどれだけ白鳥であろうとも、アヒル社会の中で生きる以上は周りからアヒルとして評価されるのであって、「私は白鳥だからできません」という開き直りは通用しない。自分の心の中で「私は白鳥だからできないんだ」と自分ができない理由に折り合いをつけることは許されても、それを口に出して言い訳に使ってはいけないのだ。何故なら、周りの誰もあなたを白鳥だと認識しているわけではないのだから。

アヒルの世界で評価される際に、白鳥としてのスペックを使うこと自体はチートではなくて、たとえばアヒルの群れの中で「ちゃんと空を飛ぶことができるのは自分の特技だ」と胸を張っても良いだろう。しかし、アヒルという立場から白鳥としての利点を生かす権利を行使するのなら、白鳥としての欠点も認める義務がある。「アヒルなのに飛べる自分を褒めてくださいよ」と周りに言いながらも、いざできないことが目立ってくると「実は自分は白鳥ですから……」と逃げるのはダブスタというやつだろう。

アヒルなら誰でも当たり前にできるのに白鳥の自分にはできないことというのはきっと、少なからず誰かの足を引っ張っているに違いない。普通の人のように自力で朝起きて時間通りに学校や会社に行くことが難しいのなら、起こしてくれる人がいるか遅刻を多めに見てくれる人がいるということだ。授業や仕事がろくにできず、昼休みには部屋の隅で独りでご飯を食べていても誰も気にかけてこない場合、それは気にかけていないのではなく気にはなるけれども気を遣って関わらないように振る舞ってくれているだけなのだ。

自分が社会に上手く嵌らず迷惑をかけてしまうのは仕方ないことだとしても、迷惑をかけてしまうなりに、できるところから少しずつ社会に適合していくような努力だけは怠ってはならない。それが誰かの足を引っ張っている者としての最低限の礼儀である。

▶ はみ出た部分を伸ばすか、削るか

ここまでの話をまとめるとこうなる。
はみ出し者が社会からはみ出していること自体は個性なので全く問題は無い。しかしはみ出し方にも二種類あって、それは自分だけの長所となり得る善性の部分と社会の迷惑になってしまうような悪性の部分に分けられる。前者は自信をもって磨き続けるべきである一方、後者にも目を背けることなく少しずつ無くしていく努力をしなければならない。

この結論を踏まえて最後に、はみ出し者のアイデンティティである「はみ出た部分」の上手な扱い方について各人が考える時間を設けることでこの話を閉じることにしたい。なお、あなたがはみ出し者を自覚するにせよそうでないにせよ、この質問は同じである。

Q. 人によって異なるはみ出し者の長所を臨機応変に活かし切れる環境を整えるために、
   我々はどのような心がけを行い、どのような社会の在り方を目指すべきか?

▶ おまけ:はみ出す以前に、完全に外側にある存在

たとえ自分のことを社会不適合者だと思っていても、全てが不適合というわけではなくて、少なからず人間の基礎となる部分の資質くらいは適合している人がほとんどだと思う。僕だって、周りの人間がわからないわからないと嘆きつつも、決して誰かの喜怒哀楽に共感できないわけではない。考え方が違い過ぎて困ることは多くても、根本的な感情くらいは共有できているように思う。
不用意に誰かを傷付けたくはないので人様のことを「あいつ」だとか「お前」とは言わないようにしているし、買っているペットが死んでしまった人がいれば同情して傍に寄り添ってあげたいと思うし、ほとんどの人が当たり前のように自分自身の幸せを強く希求しているという事実も理解しているつもりである。その上で、ちょっと人よりも変わっている部分が多すぎるんだろうなというだけの話だ。人間として「多少ずれている」としても「完全に外れている」わけではない。
これだけはみ出し者について考えたのだから、完全に外れている者についても考えてみよう。

人間の心が全くわからない人間は、どうやって生きるのだろう?

その答えの1つを示す作品に村田沙耶香の『コンビニ人間』という本がある。第155回の芥川賞受賞作品なのでご存知の方も多いだろう。
この本は、一般的な人間が持つはずの感性や社会通念が理解できないコンビニ店員の物語である。

小学校に入ったばかりの時、体育の時間、男子が取っ組み合いのけんかをして騒ぎになったことがあった。
「誰か先生呼んできて!」
「誰か止めて!」
悲鳴があがり、そうか、止めるのか、と思った私は、そばにあった用具入れをあけ、中にあったスコップを取り出して暴れる男子のところに走って行き、その頭を殴った。(中略)
「止めろと言われたから、一番早そうな方法で止めました」

女は自分が変だからという理由で家族を心配させてしまうのが嫌で、コンビニ店員を通じて「世界の正常な部品」となる生き方を選んだ。コンビニ店員ならばビデオによるお手本の真似をすれば良いからだ。「これが普通の表情で、声の出し方だよ」と教えてくれなければわからなかった彼女でも、コンビニが求める「声」に従うことはできた。
しかし、どういうわけだか生涯コンビニバイトを続けることも、独身であり続けることも世の中は許してはくれない。

「何でアルバイトなんだ、結婚はしないのか、子供は作らないのか、ちゃんと仕事しろ、大人としての役割を果たせ……みんながあなたに干渉しますよ」
「今まで、お店の人にそんなこと言われたことないですよ」
「それはね、あんたがおかしすぎたからですよ。(中略)あんたが異物で、気持ちが悪すぎたから、誰も言わなかっただけだ。陰では言われてたんですよ。それが、これからは直接言われるだけ」
「え……」
「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ」

主人公の人生が最後にはどこに落ち着くのか、そしてその結末をどのように捉えるのかを、是非ともあなた自身の目で確認し、あなた自身の頭で考え抜いてみてほしい。
社会の構造にまつわる作品なので、先の質問と同様、あなたがはみ出し者を自覚するにせよそうでないにせよ、この名作から学べることはたくさんある。