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[月記]24年2月 後悔

後悔曰く「先立つ不孝をお許しください」。
残された者曰く「先に立つならもっと早くにしてくれ」。

           ◇          ◇

絶対に後悔はしたくない、と思いながら日々を生きている。
子供の頃は無限大の可能性を秘めていたはずなのに、年を取るごとに人生が少しずつ収束していって、私たちは骨ばった真実でがんじがらめになる。学歴・就職・結婚・老後・自己実現。それらが理想的であるにせよそうでないにせよ、確定した事実は時間経過に比例して覆しにくくなってきて、それはゆっくりと絶望の沼に沈んでいくようだ。

その場その場では最適な選択をしていても、振り返ってみれば後悔というものが発生することはあるのだろうか?

枝分かれした道の左を行くか右を行くか、決断する時点での情報を元に選択を行ったとする。左はなだらかな道だが目的地までは時間がかかる。右は急だが目的地まではあまり時間がかからない。よし、早く着きたいから右にしよう、と。
出発してから枝分かれした道に関する詳細な事実を知らされたとする。左の道は60分かかり、右の道は55分かかる。右の道は想像以上に険しく、命を落とすリスクを伴う。私たちはやはり左にすれば良かったと思うだろうが、決断をした時点では右が最善だったのだから、右を選んだことに対しての後悔は生じないだろう。
しかし、その事実が初めから知り得る場所に提示されていたとすれば話は別だ。道の分岐には小さな看板が立っていて、そこには道の詳細な情報が記載されていた。そして私たちはそれを見過ごしていた。この場合には後悔が残ることだろう。周りをもっと見ておけば良かった、焦って決断を急がなければ良かった、と。

つまり、後悔が生じるのは自分に手落ちがあったときなのだ。
だから私は考える。考えて考えて考え抜いておく。情報を収集し、状況を整理し、常識よりも自分の価値観を重要視する。そこまでやって駄目ならもう素直に自分の決断が齎した結果を受け入れる他にないというくらいに、吟味し精査し考察しておく。

ある日の夕方、私が道を歩いていると車椅子の男性に呼び止められた。「○○駅までどのくらいですか?」「ここから5 kmくらいですね」「車椅子で移動できる距離じゃないなぁ。今ね、財布が無くて電車に乗れないんだ」
私は彼に千円札を渡すことにした。彼は何かを釈明するように、自分の人生について語り出した。
「仕事を辞めたことを後悔しているんだ」
苛めが横行する職場で辛かった、辞めたら辞めたで金欠になり辛かった、独身を貫いてきたから支え合えるパートナーがおらず辛かった。
こちらから訊ねてもいないのに、彼の口からは様々な後悔が噴き出してきた。
「ありがとう、助かったよ。薬を飲む時間だけど薬は家にしかないから、腕に蕁麻疹が出てきたよ」
「それならもう帰りましょう。お気をつけて、さようなら」
私が彼に手を差し伸べたのは、彼が哀れだったからではない。ここで彼に手を差し伸べておかないと、後で自分が後悔すると思ったからだ。

人生全体の答え合わせは、人生の最後になってようやく訪れる。そしてその答えは、たとえ千円札を何枚持っていようとも覆すことはできない。