言語化をやめて、言語化をし続けようという話

『大言語化時代』来る

ここのところみんな言語化が大好き。猫も杓子も言語化(※1)。だって猫は「ごはーん」って喋るもんね。しゃもじは真面目だから喋らないけど。

本もたくさん出ちゃってる

そんな言語化が覇権を取った時代にこういうこと言うと「冷めること言うなあ、水を差すなよ」と思われるかもしれないけど、でもあえて言語化って本当に手放しに良いものなのかなあ?と言いたい。

言葉はそんなに万能じゃない

人間は現実そのものを言葉で表現することはできない。たとえば自分自身が何者なのかについて、現実に存在する(と認識している)自分自身を示すことはできても、それを言葉で表現することはできない。名前を言うことはできても、自分は名前そのものではない。

言葉は現実に接地していない。「接地」とは言葉が現実の物事に結びついていることを指す。たとえば「りんご」という単語は現実のりんごに「接地」しているというように使う。しかしそれは人間が感覚(りんごを見たときに目が受ける感覚や食べたときに舌が受ける感覚など)と言葉(「りんご」)とを結びつけているだけであって、言葉が直接結びついているわけではない。そもそも言葉のうえでは「りんごが人間を食べる」などの荒唐無稽なことを言うこともできる。

また、言葉は曖昧なものでもある。たとえば「警察官が泥だらけになって逃げるドロボウを追いかけた」と述べるとき、泥だらけになっているのが警察官なのかドロボウなのか、はたまた両方なのか、この文だけでは判別できない。その一方で、事実には曖昧さはない。

言葉は現実の一側面を言い表すことにも使えるが、人間がそう使っているだけで、言葉は現実そのものではない。言葉で現実そのものを言い表すことはできない。だから「言語化する」という行為は、言語化しようとしている一側面以外の部分を言語化しないという行為でもある。私たちが何かを言語化するとき、そこには必ず言語化されなかった現実もまたあるし、むしろ構造上どうしても言語化されなかった要素のほうが多くなってしまう。

定量化の揺り戻し

似た性質を持つ行為に、「数値化」「定量化」「客観化」「見える化」がある。いずれもある現象に対する指標を決めて、数値を計測するところに共通点があり、後者2つについてはそれを公開するところに差異がある。

私達の社会は効率化を是としている。効率化を効率的に進めるためにKPI指標を設定し、日々それらを観察している。そこでは定性的な情報を評価するために定量化が行われる。たとえば顧客満足度を測るためにアンケートをとり、その定性的な内容を定量化する。商品レビューしかり、ケアの現場でのヒアリング内容しかり、コミュニケーションツール上でのやりとりしかり、いずれも定量化される。定性的な情報は、大量に集めることで一定の傾向を取り出すことができる(らしいよ)。

一方で、それでいいのだろうかという声が上がっている。定量化や数値化もまた、言語化と同じく現象の一側面を捉えているに過ぎない。過ぎないのだが、私たちは効率化を是としながらそればかりを見ていて、数値化されなかった現実を意識することが減っている(あるいは、完全に意識しなくなっている)。上がっているのは、こうして意識しなくなった見えにくい現実の部分にこそ目を向けるべきなのではないか、という声だ。しかし私たちは効率化を是としている。定量化できない情報に目を向けるのは、効率化から目を背けることだから、そちらにはなかなか舵を切れない。

こうして世の中は今や大定量化時代となり、私たち庶民はスシローやすき家で過度にシステマチックなサービスを受ける社会に至ったわけだけど、ちょっと待ってほしい。なんだか既視感が無いか? そう、大言語化時代だね。筆者は同様の揺り戻しがやってくるのではないかと考えている。私たちは、言語化されなかった部分にももっと目を向けるべきなんじゃないか。

言語化の侵襲性と責任

精神分析のなかで、「あなたにはこういう過去がある。その過去が影響してこういう認知になっていて、今のつらさの原因はそこだ」というような理解が行われることはないらしい。それは「自分を救うことができるのは自分自身だけだから」だと説明されているのを読んだことがあるのだけど、その自分にしか自分を救えない理由について、筆者は言語化の持つ「言語化していない部分から目を逸らさせる」性質にあるのではないかと考えている。

冒頭から述べているように、現実は多面的で、言語化はその一側面を捉える行為だ。そしてまた一側面以外からは目を逸らさせてしまう。「あなたにはこういう過去が〜」というのは、人間という現実の言語化だ。つまりそこでは、一側面が言葉で理解されると同時に、言語化されなかったその他の側面が見えにくくなってしまっている。

私は私そのもの(現実)を知らない。あなたもあなたそのものを知らない。私はあなたそのものを知らないし、あなたも私そのものを知らない。私やあなたについての言語化は、じつは現実とは食い違っているかもしれないが、はっきりとはわからない。また、私やあなたは時間経過によって変化し得る。今現在の私やあなたそのものが、言語化によって正しく捉えられているのかどうかは誰にもわからない。しかしそれが描き出しているのがたとえ一側面だけだったとしても、知りたいし理解したい。そういうわけで不完全な言語化が行われる。

不完全だからこそ、その言語化の言葉は自分で選ぶべきだ。自己表現のなかで自己を理解していくべきだ。他人に表現された自己をそのまま受け入れるのではなく、一度自分のなかの深いところで吟味すべきだ。そのうえで責任を持って自分そのもの(現実)の上に着せるべきだ。自分で着た服なら、自分のタイミングで好きに着替えられる。

より良い言語化のために

これまでに何度着替えたとしても、時間経過による変化や最初からの食い違いによって、現実(私やあなた)の中の言語化されていない部分がきっと、いつか違和感に耐えかねて「違う」と声を上げるだろう。しかしそれも、言語化の性質を知った上でそういうものだとわかっていれば対処できる。生じた違和感を観察して、よりよい言語化をしよう。

人間のなかにある無意識や、象徴界(社会規範や言語ゲームの世界)の外部(現実や想像)に至っては、そもそも言語化できない。では言語化を諦めるのかといえば、そういうわけにもいかない。私たちは言葉を獲得した段階からずっと言葉で思考し、言葉で世界や認知を切り取り、言葉で他者へと働きかけている。人間は言語表現から逃れることはできない。

だからこそ自分の責任を伴った言語表現をしよう。少なくとも、私的な言葉は自分で選ぼう。高性能なAGIにデートコースを決めてもらうことなく、自分の責任で相手を笑わせたり泣かせたり呆れさせたり怒らせたりしよう。同様に、人生における相手は自分だ。自分の責任で選んだ人生を生きよう。

より適切に選ぶために、表現しようとしている対象そのものを詳細に観察しよう。より相応しく伝えるために、表現の順序を意図的に構成しよう。より効果的に伝えるために、表現の方法や内容を吟味しよう。言語化しなかった部分や言語化できない部分にも目を向けて、諦めずに言語化し続けよう。たとえそれが毎回不完全だったとしても、きっとより相応しくはなっていく。そうして言語化を続けていく姿勢と責任を含むのが、『大言語化時代』にふさわしい言語化なのかもしれない。

言語化をやめて、言語化をし続けよう。




※1:ここでの「言語化」の意味については以下。

参考文献


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