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連載日本史㉗ 律令制(5)

大宝律令制定の中心人物であった藤原不比等は鎌足の息子であった。律令制の成立過程における不比等の立ち位置は、大化の改新における鎌足の立ち位置に似ている。すなわち、自分自身は表に出ず、天皇を前面に立てて実質的な権力を掌握した総合プロデューサーという役回りである。

大宝律令は唐(中国)の律令をモデルとしたものだが、唐の制度をそのまま日本に受け入れたというわけではない。そこには日本独特のアレンジがあり、律令編纂の過程は、外来のシステムをどのように日本に適したものへと(あるいは編纂者に都合の良いものへと)変えていくかという深謀遠慮のプロセスでもあった。唐の行政組織と日本のそれを見比べてみると、律令編纂の中心となった不比等が、外来のシステムにどのような日本的アレンジを加えたかが見えてくる。

唐と日本の律令官制の比較(kousin242.sakura.ne.jpより)

唐の律令制における組織図も、皇帝をトップに戴く中央集権ピラミッド型の官僚組織である点では、日本と変わらない。ただし、よく見ると、唐では皇帝の下に三省六部の行政組織が直結しているのに対して、日本の組織図では、天皇と行政組織(八省)の間に、国政を統括する機関として、太政官が入り込んでいる。太政官は一人ではない。太政大臣・左大臣・右大臣・大納言らの合議機関である。つまり、絶大的な権力を持つ唐の皇帝に比べ、日本の天皇は、太政官の建議に基づいて国政の運営に決裁を与える承認者としての意味合いが強いのである。おそらくその方が、日本の組織の意思決定システムとして適しているという判断があったのだろう。

意思決定の類型(buisiness.nikkei.comより)

これは現代の日本の組織にもしばしば見られるパターンで、トップの下に少数の実質的な権力者がいて、その中での(多くの場合、密室での)合議において、実質的な意思決定がなされるのである。トップが承認印を押す際には、すでに方針は決まっているのだ。太政官には、後に「令外の官」として内大臣・中納言・参議などが追加されることになる。よほど日本の政治風土に合ったシステムだったのだろう。不比等はおそらく、聖徳太子や蘇我馬子、そして自身の父親である鎌足の事例から、日本型意思決定システムの在り方について熟考を重ねていたのだ。

藤原氏・天皇略系図(山川出版社「新日本史」より)

太政官制は、日本の政治風土に適合していただけではない。藤原氏一族の利益にも直結するシステムだった。実際、不比等の死後には、彼の子孫たちが太政官の役職を独占していく。最高責任者はあくまで天皇だが、実質的な意思決定者は藤原氏一族というわけである。もちろん違法ではない。目立たぬように、合法的に、次世代まで見据えて、不比等は自らの一族の権力基盤を固めていったのである。

そうした目で組織図を眺め直してみると、太政官と並ぶ神祇官の存在も奇妙だ。太政官の下には八省があるが神祇官の下には何もない。地位は高いが、実権はないに等しい。これは政敵を体よく追い払うための官職ではなかろうか。ポストだけ与えて実権を奪う。唐や新羅との関係が修復され、防衛上の脅威が緩んだ後も、北九州に大宰府を置き続けたのも、同じ理由で説明できるだろう。邪魔者に地位だけ与えて遠方へ追いやるシステムを残しておきたかったのだ。事実、後世には、藤原氏一族からみて邪魔者とみなされた菅原道真が大宰府へ左遷されている。律令制に基づく官僚機構には、あらかじめ排除の装置が組み込まれていたのだ。

藤原不比等建立とされる興福寺の中金堂(興福寺HPより)

漫画「ドラゴン桜」の主人公は、勉強に対して無気力な高校生たちにハッパをかけて言う。「ルールを作っているのは、頭のいい奴らだ。つまり、世の中のルールっていうのは、頭のいい奴の都合のいいように作られてるってことだ。悔しかったら勉強して、ルールを作る側に回れ!」と。

藤原不比等は稀代のルールメーカーであった。無論、単に頭が良かっただけではあるまい。外国の制度を取り入れて、それを日本に適合するように作り直し、なおかつ結果的に次世代にわたって自身の一族に利益がもたらされるように計算して制度設計を行うなど、法と政治と経済についての相当の勉強量がなければできないことだ。彼の深謀遠慮によって設計された日本型組織の基本形は、今もなお日本の官僚機構や企業風土の中に根強く残っている。私たちは未だに、彼の描いた設計図の上で踊らされているような気さえするのだ。悔しかったら、勉強するしかないのだろう。





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