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オリエント・中東史⑫ ~キリスト教の誕生~

紀元前1世紀の中頃からパレスチナ地域はローマの支配を受けるようになった。前40年にローマ元老院からユダヤ王としての地位を認められたヘロデがエルサレム神殿の再建を行い、ローマ支配下でのユダヤ教による自治体制を築いた。しかしヘロデ王が死ぬとユダヤ人内部での紛争が起こり、紀元6年にはローマの直接支配を受ける属州となった。この時、ローマ総督としてパレスチナの統治にあたったのが、後にイエス・キリストを処刑することになるピラトである。

紀元28年、パレスチナのガリラヤ地方で預言者ヨハネが「終末の審判が近づいた。悔い改めて洗礼を受けよ」との教えを人々に広めた。これは権威を独占していたユダヤ教祭司による罪の許しを否定するものだったので、ヨハネは危険人物として処刑されたが、彼の洗礼を受けた者の中にイエスがいた。イエスはヨハネの教えを受け継いで伝道を開始し、貧しい人々や病に苦しむ人々の中に入っていき不治の病を治すなどの数々の奇跡を起こしたという。イエスは下層の民衆からメシア(救世主)として支持され、急激に信徒を増やしていったが、ユダヤ教の指導者や保守派は彼を旧来の秩序を破壊する危険人物として総督のピラトにイエスの処刑を訴える。弟子の一人であるユダの裏切りによって捕らえられたイエスはゴルゴダの丘で十字架に架けられて処刑され、イエスの教団は一時は壊滅に追い込まれたが、その数日後に彼の復活を目撃したという弟子が続出し、キリスト信仰が再燃したのであった。

イエス本人は独自の宗教を樹立しようとしたのではなく、ユダヤ教の改革を目指したに過ぎなかった。しかし、彼の教えは、民族や階級の枠を超えた無差別の隣人愛や人間の原罪といった普遍的な要素を含んでおり、それがユダヤ教の選民思想や特権階級の既得権益とは相容れず、旧来の体制の破壊者として危険視されたということであろう。逆に言えば、それだからこそ後に世界宗教へと発展する性質を持ち得ていたとも言える。イエスの死後に精力的な伝道を開始したペテロやパウロらは、まずは小アジアのユダヤ人たちへ、さらには帝国の首都ローマで多様な人々に対して、広く布教を行った。当初は激しい迫害を受けたキリスト教であったが、信者たちは地下に潜って活動を続け、信仰は帝国全土へと拡大した。ローマ皇帝も次第に、迫害よりはむしろ統治の道具としてキリスト教を認めていく方向へと転じ、313年にはコンスタンティヌス帝によるミラノ勅令でキリスト教が公認された。イエスの死後300年近くを経て、キリスト教は世界宗教への大きな一歩を踏み出したのである。

現代の世界における三大宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)のうちの二つ(キリスト教・イスラム教)が中東地域で生まれたのは、この地域がメソポタミア文明にはじまる世界最先端の文明先進地域であったことに加えて、多くの民族や文化が錯綜し、紛争の絶えない地域であったという点も大きいだろう。民衆の精神的支柱としての宗教の重要性は、穏やかな地域に暮らす人々の比ではなかったと考えられるのである。救世主を待望する世界でしか救世主は見出されないし、多くの矛盾を抱えているからこそ普遍的な真理が渇望されるのではなかろうか。宗教が貴重な人類の文化であることはもちろんだが、その発生の過程は必ずしも幸福なものとは言えないと思うのだ。
 

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