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連載日本史76 執権政治(2)

幼少時に将軍として迎えられた九条頼経は、成長するに従って、自らの意思で政治を行おうとするようになった。そうなると、北条氏にとっては厄介者である。泰時の死後、執権の地位に就いていた経時は、頼経を廃し、第五代将軍として六歳の頼嗣を擁立した。将軍はあくまで従順な傀儡であってくれなければ、都合が悪いのである。

北条氏略系図<番号は執権就任順>(manareki.comより)

経時の死後、北条時頼が執権に就任した1246年に宮騒動が起こる。これは前将軍の頼経が、北条氏への権力集中を嫌う有力御家人たちと結びついて巻き返しを図ったもので、結局、頼経は京都へ追放されることとなった。翌年には有力御家人のひとりである三浦泰村の反乱(宝治合戦)が起こるが、時頼はこれにも勝利し、北条氏宗家への権力集中を、さらに強めたのである。

北条時頼坐像(鎌倉宝物館)

時頼は1249年に引付衆を設置して訴訟処理の迅速化を図るとともに、1252年には将軍頼嗣を廃し、十一歳の宗尊親王を、皇族将軍として迎え入れた。成長して自分の意志を持つようになった将軍は邪魔者として廃される、というわけで、こうした露骨な将軍交代劇は、その後も続くこととなる。

鎌倉幕府の権力推移(「世界の歴史まっぷ」より)

1256年に出家して長時に執権の地位を譲った時頼は、その後も北条家本宗家の惣領(得宗)として実権を握り続ける。ここから、執権政治は、実質的には得宗政治となっていくのである。この頃には評定衆の会議での決定よりも、得宗家を中心とした私設会議である寄合での決定の方が優先されるようになっていた。北条家得宗の専制体制は、時頼以降、時宗・貞時・高時と継承されてゆく。

伊豆・最明寺にある北条時頼の墓
(yoritomo-jaman.comより)

時頼自身は質素な倹約家であり、人格者でもあったようで、文献からは強圧的な独裁者のイメージは浮かんでこない。有名な「鉢の木」伝説では、民情視察のために身分を隠して諸国を廻った時頼のエピソードが語られ、徒然草では、夜中に部下の私邸を訪れ、残り物の味噌を肴に酒を酌み交わす、砕けた人柄の時頼の姿が描かれている。後世の脚色もあろうが、それなりの人物だったからこそ、引退後も力を持ち得たのだとも言えるだろう。十七年に及ぶ治世の後、1263年に時頼は死去した。その頃、大陸では、チンギス・ハンが建国したモンゴル帝国が急速に勢力を伸ばし、孫のフビライ・ハンが即位していた。





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