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連載日本史㉕ 律令制(3)

大宝律令を中心とした律令制度の要点を、三点に整理してまとめてみよう。
まず、令(行政法)による組織と官制の確立である。中央では二官八省、すなわち祭祀を司る神祇官と国政を司る太政官を配し、太政官(太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・小納言・左弁官・右弁官など)の下に、中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内の八つの省を置いた。地方では、国郡里制が敷かれ、中央から任命された国司の下に郡司、その下に里長という形で、中央に従属するピラミッド型の地方行政組織が完成した。官職に応じて位階が設けられ、たとえば太政大臣なら正一位、中納言なら従三位、上国の国守なら従五位などのように、細かく序列化された官位に基づいて、収入の多寡や特権の有無も定められた。三位以上は国政の意思決定に関与できる公卿、五位以上は昇殿を許された殿上人、それ以下は官人という具合で、公卿と官人では十倍以上の収入の差があったという。おまけに親の官位によって子や孫のスタートラインが有利になるという蔭位の制までついていたため、貴族たちは官位を巡る競争に明け暮れることになった。

律令制における組織と官制(コトバンクより)

第二に、律(刑法)による刑罰の明確化である。体罰・懲役・流罪・死罪などの規定が定められ、犯した罪の重さによって受ける刑罰の程度もさまざまであったが、同じ犯罪でも天皇・国家・神社・祖父母・父母・夫・師に対するものは重罪とされたという点に、律令制度のモデルとなった中国の儒教的価値観が垣間見える。

大宝律令における刑罰(山川 小説日本史図録より)

第三に、公地公民の原則に基づく班田収授法、すなわち口分田の強制貸し付けと、それに応じた税の徴収である。全国的に網羅された戸籍・計帳を元に六歳以上の男子に二段(約24アール)、女子にはその三分の二が国家から班給され、その分の税が課せられた。当時の税は金納ではなく、物納または労役である。土地の面積から割り出した期待収穫量の約三%の稲穂を納入する「租」、絹や綿などの特産品を納入する「調」、年間十日の労役または布の納入である「庸」、年間六十日までの労役である「雑徭」、さらに正丁(21歳~60歳の男性)の三人に一人の割合で、諸国の常備軍である軍団の兵士や九州の防衛にあたる防人などの兵役が回ってきた。北九州には、大陸からの侵攻に備えて、大宰府という特設の役所が置かれており、主に東国から徴兵された防人たちは大宰府へ送られて三年間は帰郷できなかったという。いずれも、民衆にとっては、食うや食わずのギリギリの生活を強いられる重い負担であった。

律令制下の税制(東京書籍「図説日本史」より)

こうしてみると、律令制は、中央集権国家の支配体制としては、きわめて合理的なものであったように見える。しかし一方で、民衆の負担の過酷さや、支配階級内部での競争の激化など、生身の人間に対してかなりの無理を強いるシステムであったようだ。机上の合理性を徹底しすぎると現場での無理が生じ、やがてはシステム自体の自己崩壊を招くことになる。中央集権のビジョンを貫徹し、古代政治システムの一応の完成形であるとみなされた律令制は、まさにその完全性ゆえの矛盾から内部崩壊していく運命を内包していたのである。




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