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連載日本史㊳ 天平文化(1)

八世紀、奈良時代に平城京を中心として花開いた文化を、聖武天皇時代の元号にちなんで、天平文化と呼ぶ。遣唐使によってもたらされた中国・唐の国際色豊かな文化の影響と、鎮護国家の思想のもとで国を挙げて推進された仏教の影響を強く受けた、華やかな貴族・仏教文化であった。

東大寺盧舎那仏坐像

天平文化の代表作品は、何と言っても東大寺の大仏である。高さ14.7m、基壇の周囲70m。寄進者・労働者を含めて、造営工事に関わった人数はのべ260万人、建造費は大仏と大仏殿を合わせて現在の価格で約4657億円と推定されている。まさに国家あげての一大プロジェクトである。

行事菩薩像(Wikipediaより)

大仏造立の背景にあったのは鎮護国家の思想である。仏教の力によって、国家の安定を図ろうとしたのだ。従って、奈良時代初期の仏教は、上からの官製思想であった。一方、一般民衆の間にも仏教は徐々に広まり、善行を積むことで福徳がもたらされるという因果応報思想のもと、さまざまな社会事業が行われた。その中心となった僧が行基(ぎょうき)である。各地に道場を開いて民衆を教化し、自ら弟子を率いて橋や堤防などの築造を行った行基は、当初は危険人物として政府から弾圧を受けたが、大仏造立の際には弟子や民衆を率いて工事に積極的に協力し、745年には大僧正に任じられている。大仏は、官民仏教の融和のシンボルともなったのだ。

唐招提寺の鑑真和上像
(jptrp.comより)

大仏開眼供養の翌年(753年)、唐から鑑真(がんじん)が来日する。五回も渡航に失敗し、何度も命の危険にさらされ、失明の憂き目に遭いながらも、六度目の挑戦で、やっと日本にたどりついたのである。渡航を決意してから十年以上が経過していた。大仏開眼と鑑真の来日によって、奈良仏教の盛り上がりは頂点に達した。鑑真は仏教の戒律を広め、唐招提寺を建立。東大寺に設けられた戒壇(正式な僧となるために高僧から戒律を授かる儀式の場)では、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇に戒律を授けた。やや色合いは異なるが、当時のヨーロッパでは、800年にローマ教皇レオ三世が、フランク王国のカール大帝への戴冠を行っている。宗教と国家権力の結びつきは、洋の東西を問わず、歴史を動かす大きな要因のひとつであると言えよう。


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