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連載日本史62 院政(3)

1155年、近衛天皇死去の後、後白河天皇が即位した。これは鳥羽院と、その皇后であった美福門院得子の意向が強く働いた結果であると言われる。鳥羽院の長子である崇徳院は鳥羽院の前皇后である待賢門院璋子と白河上皇の密通によって生まれた不義の子であるというのは公然の秘密であり、鳥羽院は崇徳院を「叔父子」と呼んで露骨に疎んじた。後白河天皇の即位は、崇徳院の子である重仁親王の皇位継承権の消滅を意味していた。崇徳院は激怒し、周囲の武士や貴族を巻き込んでクーデターを企てた。翌年、鳥羽院の死去を契機に、保元の乱が勃発する。

保元の乱前後の皇室・摂関家系図(manareki.comより)

当時、藤原摂関家でも、関白藤原忠通と、その異母弟である左大臣頼長の間に、家督を巡る争いがあった。父の忠実は頼長を支持、忠通は後白河天皇方に、忠実・頼長は崇徳上皇方についた。

保元の乱関係図(ameblo.comより)

武士たちもまた源氏・平氏ともに両派に割れた。源氏では源義朝が天皇方、父の為義と弟の為朝が上皇方に、平氏では平清盛が天皇方、叔父の忠正が上皇方についた。さらに天皇方には当代きっての俊才であった信西がいた。信西は出家前の俗名を高階通憲といい、もとは藤原南家の出身であった。同じ藤原氏でも摂関家である北家とは違って、学者の家である南家出身では政権中枢での出世は望めなかったが、信西は後白河天皇の懐刀として頭角を現し自らの才覚でのし上がってきたのである。

保元の乱合戦図屏風・白川殿夜討(Wikipediaより)

鳥羽院の死去から間もない1156年7月、天皇方は高松殿に、上皇方は白河殿に集結する。上皇方の作戦会議では源為義が夜襲を提案したが却下された。一方、天皇方では源義朝の提案が採用され、上皇陣営を急襲。この先制攻撃の成功が勝敗を分けた。藤原頼長は戦での矢傷によって死亡し、父の忠実は息子を見捨てて無関係を装ったが結局は幽閉されて自害、崇徳上皇は讃岐へ流され、平忠正と源為義は斬首された。三世紀ぶりの死刑執行は、乱世の到来を示唆する狼煙であった。

保元の乱の結果(rekishi-memo.netより)

さまざまな野心と愛憎が交錯し、同族の間で殺しあった保元の乱は、勝利を収めた側にも大きな傷を残した。特に藤原摂関家は大きな打撃を被り、政治の表舞台から退くことになった。代わって勢力を増した武士の間でも、戦後の実権を握った信西と結んだ平清盛が四ケ国の知行国を恩賞として得たのに対し、源義朝に与えられた知行国はたったの一国という露骨な差があり、父に刃を向けてまで天皇方に味方した義朝の不満は大きく膨らんだ。

保元の乱がもたらした最大の影響は、力こそが正義だという風潮を世に広めてしまったことだろう。武力で雌雄を決し、敗れた者は殺される。滅ぼされたくなければ、勝つしか道はない。保元の乱からわずか三年後に勃発する平治の乱へと向かう矢は、すでに放たれていたのである。





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