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オリエント・中東史② ~アッカド王国・バビロン第一王朝~

紀元前2300年頃、メソポタミア北部のアッカド人が勢力を増し、南部のシュメール人都市国家を次々と征服してメソポタミア全域を支配するアッカド王国を作り上げた。アッカド王国のサルゴン1世は主要な交易路を抑えて版図を広げ、孫のナラム・シン王の時代には西はアルメニアから東はイラン西部のエラムまで勢力を伸ばした。アッカド人はアラブ人やヘブライ人と同系統のセム語系の民族であり、王国の支配の拡大によってアッカド語がメソポタミアの公用語となったが、アッカド人は文字を持たなかったので、シュメール人の楔形文字を継承することとなった。すなわち、アッカド語を楔形文字で記した粘土板がアッカド王国の公式文書ということになるのである。

アッカド王国は180年近く続いたが、バビロニア東北部からのグティ人の侵略を受けて滅亡する。グティ人の支配は100年以上に及んだが、その間に南部のシュメール人が独立を回復し、ウル第三王朝を建国する。ハンムラビ法典の原型となったシュメール法典はこの時代に成立したもので、法による行政や裁判が既に行われていたことを示している。ウル第三王朝も100年近く続いたが、東方のイラン地域から侵入したエラム人に滅ぼされた。

一方、西方からメソポタミアに侵入したセム語系遊牧民のアムル人は、ティグリス・ユーフラテス川中流域のバビロニアを拠点として紀元前1900年頃にバビロン第一王朝(古バビロニア王国)を建国した。新たに建設された王国の首都であるバビロンは、その後も数世紀にわたって興亡したメソポタミア諸王朝の中心地となる。前18世紀のハンムラビ王の時に王国の版図は最大となり、その支配はメソポタミア全域に及んだ。王は官僚制や軍制・駅伝制を整備し、灌漑用水路を建設し、交易を促進して王朝の最盛期をもたらした。この時代に成立したハンムラビ法典は、有名な「目には目を、歯には歯を」の復讐法を含む体系的な成文法であり、被害者の救済や製造者責任の明確化など、後世から見ても先進的な内容を含んでいる。

ハンムラビ王の死後、王国は急速に衰退した。代わって勢力を増したのは、メソポタミア北部のミタンニや中部のカッシートなどの諸民族、そしてアナトリア(トルコ)地域のボアズキョイを都として、当時の最先端技術である鉄器を使用してメソポタミア世界を席巻したヒッタイトである。インド・ヨーロッパ語族に属するヒッタイトは、鉄騎兵を中心とした強大な軍事力で、紀元前1595年にバビロン第一王朝を滅ぼす。首都バビロンは、その後、ヒッタイト、カッシート、さらにイラン地域からのエラム人の侵攻を受け、この地の支配民族は次々と変遷していく。紀元前7世紀にアッシリア帝国がメソポタミア地域を含む全オリエントを統一するまで、長い分裂抗争の時代が続くことになるのである。

はるか紀元前の時代から、これだけ多くの民族が入り乱れて抗争を繰り広げたのは、メソポタミアが豊かな地であったからにほかならない。かつての肥沃な三日月地帯では、播種量の75倍という驚異的な収穫が得られたという。その豊かさが人々を引き寄せ、土地を巡る激しい争奪戦が延々と繰り広げられた。バビロンで作られたはずのハンムラビ法典の石柱が後世にイランのスサで発見されたのは、この地に侵攻したエラム人の王が戦利品として自国に持ち帰ったからだと思われる。それが今はフランスのルーブル美術館に所蔵されている。この石柱が辿った長い時空の旅が、メソポタミアが経験してきた長い争いの歴史を象徴しているようだ。現代の中東でも争いが絶えないが、それは豊富な石油資源あってのことだろう。昔は穀物、今は石油――。豊かさが争いの種になるという悲しい逆説は、今もなお変わってはいないのである。

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