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連載日本史94 南北朝(2)

1368年、二代目将軍足利義詮が死去し、11歳の義満が第三代将軍の地位に就いた。将軍補佐として実質的に統治にあたった管領細川頼之は、応安半済令を出し、地域限定・期間限定であった観応半済令の対象を全国に拡大し、期間も無制限とした。現代でいえば、特区だけに認められていた政策を、全国に適用したようなものである。これに伴い、年貢折半の趣旨を持っていた半済令は、土地そのものを折半する下地折半の性格を帯びるようになった。守護への大幅な権限委譲である。その背景には、南北朝の対立と相次ぐ内紛による中央政府の不安定化と、それに乗じた地方守護の勢力伸長があった。

半済令・守護請の構造(manareki.comより)

成長するにつれ、強い指導力を発揮するようになった義満は、こうした幕府の現状に危機感を抱いた。1378年、花の御所と呼ばれる室町に幕府の本拠を移した義満は、翌年には康暦の政変で管領細川頼之を罷免、将軍独裁体制を敷く。義満は守護の権力抑制と南北朝の合一を目指し、1390年には伊勢・美濃・尾張の守護を兼任していた土岐康行を討伐、翌年には明徳の乱で山陰十一国の守護であった山名氏清を討ち、有力守護の勢力削減を進めた。

足利義満(Wikipediaより)

一方、九州を中心に独自勢力を保っていた南朝は、1383年に懐良親王が死去してからは求心力を失い、次第に弱体化しつつあった。この機を逃さず、義満は南朝の後亀山天皇に働きかけ、北朝の後小松天皇のもと、南北朝合一に成功する。これ以降、皇位継承は北朝の持明院統に統一され、60年近くに及んだ南北朝時代は終わったのである。(現在の天皇は北朝・持明院統の末裔にあたるはずだが、明治政府が南朝を正統としたため、北朝五代は歴代天皇としてカウントされていない。)

南北朝天皇系図(blog.goo.ne.jpより)

南北朝の動乱は、観応の擾乱がなければ十年余りで終わっていたはずのものである。それが長期化したのは、幕府の内部分裂に関わった関係者たちが、それぞれ自分たちの都合の良いように朝廷を利用しようとしたからである。結果的にそれは中央政府の統治力を弱め、相対的に地方の有力守護たちの勢力を強めることにつながった。地方分権といえば聞こえは良いが、明確な方針を持った分権ではなく、中央の制御が利かなくなった結果としての、なし崩し的分権であった感は否めない。その後遺症は、南北朝合一の後も、幕府と朝廷を蝕んでいくのである。




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