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連載日本史56 国風文化(3)

平安中期における浄土信仰の隆盛は、当時の建築や美術にも大きな影響を与えている。この時期の代表建築はやはり宇治の平等院鳳凰堂であろう。平等院は藤原頼通が父の道長から受け継いだ別荘を、末法元年とされる1052年に大日如来を本尊とする寺に改めたものである。鳳凰堂は浄土信仰の中心仏である阿弥陀如来像を安置し、鳥が翼を広げて前方の池を抱き込むような優雅な姿でたたずんでいる。内陣の阿弥陀如来像は寄木造の技法を完成させた仏師定朝の作であり、その光背に浮き彫りにされた飛雲や蓮華、壁面に懸けられた五十二体の雲中供養菩薩像など、堂全体に極楽浄土を現出しようという一貫したコンセプトが感じられる。

平等院鳳凰堂(Wikipediaより)

同時期に建立された法界寺の阿弥陀堂に安置された阿弥陀如来像にも、穏和な表情や均整のとれた姿態など、平等院鳳凰堂の像と共通する特徴がみられる。定朝によって完成された寄木造の技法は、前代の一木造とは異なり、それぞれのパーツを多くの仏師が分業で制作することで、大型の仏像の短期大量生産を可能にした。それが当時の極楽往生を願う貴族たちの造仏・造寺ブームの需要に合致し、仏像彫刻は一大産業となったのである。

平等院阿弥陀如来像(平等院HPより)

絵画の分野でも、鳳凰堂の扉絵や高野山の聖衆来迎図に、浄土から仏が来迎する情景が描かれている。これらは中国風の唐絵(からえ)に対して、日本の風景・人物・故事・物語などを題材にした大和絵(やまとえ)の例とされる。工芸の分野では、金銀の粉を蒔いて文様を描いた面を漆で塗り込め、再びその文様を研ぎ出す蒔絵(まきえ)や、研磨した貝殻をさまざまな形に切って表面にはめこむ螺鈿(らでん)などの技法が普及した。書道では中国の書を基礎としながらも、和様の書が工夫されるようになった。当時の能書家として高い評価を得た小野道風・藤原佐理・藤原行成は、前代の空海・嵯峨天皇・橘逸勢の「三筆」に対して、「三蹟(さんせき)」と称されている。

高野山聖衆来迎図(「世界の歴史まっぷ」より)

美術分野での多様な技法の発展は、大陸文化の圧倒的な影響から脱し、日本独自のものを追求しようとする国風文化時代の志向を如実に反映しているといえる。「大和絵」という名称の誕生は、それが意識として顕在化したものであろう。全ての技法が日本発祥のものであるとは言えないが、いずれもこの時期の日本で独自の発展を遂げたことは確かである。特に漆工芸は日本のお家芸とされ、後世には世界的に、陶器をチャイナ、漆器をジャパンと呼ぶ風潮が生まれた。

片輪車蒔絵螺鈿手箱(Wikipediaより)

大正から昭和前期にかけての文豪である谷崎潤一郎は、名著「陰翳礼讃」において、漆器や蒔絵の美を陰翳との親和性の中に見出し、平安時代の日本人の繊細な美意識を讃えると共に、陰翳を忌避するようになった近代日本の美意識の変質を嘆いている。彼が「源氏物語」の現代語訳をライフワークとしたのも、当時の日本人の感性や美意識に強く魅かれていたからであろう。彼が彼岸の浄土から現在の日本の夜景を見下ろしたならば、膨大な電灯の光の渦を見て卒倒するかもしれない。





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