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連載日本史98 応仁の乱(1)

1449年、八代目将軍職に就いた足利義政は、当初は意欲を持って政治に取り組んだものの、幕府の財政難や、妻の富子の実家である日野家からの介入などに嫌気がさし、次第に趣味の世界に没頭するようになっていった。義政は自身の後継者として異母弟の義視(よしみ)を養子に迎えていたが、義政と富子の間に義尚(よしひさ)が生まれたことで、両者の間に家督を巡る争いが起こる。これに管領家やら守護大名やらの対立や内紛が絡み合って、京都を主戦場に全国を巻き込んだ応仁の乱へとつながっていったのである。

応仁の乱関係図(「世界の歴史まっぷ」より)

乱の発端となったのは、管領の畠山・斯波両家の家督争いである。畠山家では義就と政長が、斯波家では義廉と義敏がそれぞれ争っていた。そこに侍所所司の山名持豊(宗全)と管領細川勝元の政権内での勢力争いが加わり、畠山義就・斯波義廉・山名宗全が連合して西軍となり、畠山政長・斯波義敏・細川勝元が連合して東軍となって、1467年に戦端が開かれ、1477年まで11年にも及ぶ長期戦となってしまったのである。要するに応仁の乱とは、内輪揉めの集大成だったのだ。

本来は戦乱を止めるべき立場の将軍家までもが乱に加わったため、戦闘は泥沼化した。足利義視は当初は東軍についたが、東軍支持の義政が次期将軍に実子の義尚を推す姿勢を鮮明にしたために西軍に奔り、東軍に義政・義尚、西軍に義視という構図となった。東軍は将軍の御所である室町に本陣を置き、西軍は京都市中の西部にあった山名宗全の屋敷に本陣を置いた。西軍の本陣のあった地域は、後に西陣と呼ばれるようになる。つまり、応仁の乱における東軍・西軍という呼称は、京都市中での両軍の本陣の相対的な位置関係によるものであって、全国の守護大名が関東と関西に分かれて戦ったわけではないのだ。実際に、当時の守護大名の勢力図を、東軍・西軍で色分けした地図からは、各地に東軍・西軍が入り乱れたモザイク模様が見て取れる。しかも、各々が各々の利害に従ってどちらの側につくかを決め、さらに状況の変化に応じて寝返りが続出し、混乱に拍車がかかった。

応仁の乱・両軍勢力図(コトバンクより)

乱の勃発から6年を経た1473年、西軍の大将の山名宗全と東軍の大将の細川勝元が相次いで死去した。その翌年には義尚が九代目将軍に正式に就任し、畠山政長が管領の地位に就いた。この時点で乱の発端となった家督争いは一応の決着を見たわけだが、信じられないことに、両軍の大将が不在のまま、戦闘は続行された。和平を導くリーダーシップがないままに、いわば惰性で戦いを続けたのである。当時の文献にも、何のために戦っているのか、いくら考えてもわからない、という記述が残っている。応仁の乱は当初から大義なき利害闘争の色が強かったが、後半戦になると益々その傾向が強くなり、目的そのものを見失い、「戦いのための戦い」と化していったのである。

応仁の乱・京都の被災状況(コトバンクより)

ヨーロッパ中世の三十年戦争や英仏百年戦争、近代日本では満州事変から太平洋戦争に至る十五年戦争など、長期化した戦争における共通点は、戦争自体の自己目的化である。戦争は本来、何らかの政治的目的を達成するための手段に過ぎない。中国古代の兵法の大家である孫子は、そもそも戦わずに目的を達成するのが最善の策であり、やむをえず武力に訴えなければならない場合には、極力、短期で切り上げるのが次善の策だと述べている。さもなくば、応仁の乱と同様、「戦争のための戦争」と化してしまい、何のために戦っているのかわからないまま、双方の被害だけが拡大していくことになるだろう。長期戦の弊害の教訓は、とうの昔に明確に示されていたのである。




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