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連載日本史78 蒙古襲来(2)

弘安の役において元の東路軍がとった航路は、文永の役と同じ対馬・壱岐・北九州ルートであった。そのため、日本側も十分な警戒態勢を敷いており、各地での戦闘は激戦をきわめた。やや遅れて北九州に到着した江南軍も日本側の激しい抵抗に遭い、先着していた東路軍とともに、船を海上にとどめて反撃に備えた。そこを台風が直撃したのである。

弘安の役関係地図(mapple.netより)

もともと騎馬民族の元軍は海戦に慣れていない。モンゴルの強さは馬を有効に活用した機動力にあり、船上での戦いは素人に近かった。支配下においた諸民族から実力主義で人材を取り立てたモンゴルは、日本侵攻にあたっても東路軍には高麗、江南軍には南宋の兵も動員して海戦の経験不足を補ったものの、やはり寄せ集めの感は拭えない。加えて日本の気候風土に対する無知が命取りになった。日本の夏から秋にはつきものの台風への警戒を怠った元軍は、嵐によって壊滅的な打撃を被ったのである。

モンゴル帝国の最大版図(「世界の歴史まっぷ」より)

世界最大規模の軍勢を擁しながら、二度の日本侵攻に失敗した元は、改めて三度目の侵攻を企てたが、フビライの死によって挫折に至った。東方での野望は潰えたものの、モンゴルは、中国の元、ロシアのキプチャク=ハン国、中東のイル=ハン国、中央アジアのチャガタイ=ハン国と、ユーラシア大陸全体に広がる「タタールの平和」を実現し、さらにムスリム商人の協力を得て空前の交易ネットワークを築き上げた。一方、元軍を撃退した日本は、国内の戦後処理に苦慮し、幕府の力は次第に弱体化していく。

そもそも鎌倉幕府を支えた御家人の行動原理は、御恩と奉公の関係を軸に、土地を媒介にした封建的契約関係であった。身命を賭して戦功を上げた武士に対しては恩賞を以て報いるのが幕府の義務であったはずだが、元との戦いでは恩賞に充てる征服地もなければ、戦利品もなかった。武士たちの不満は募り、内紛が頻発するようになる。鎌倉時代の武士たちにとっての最大の関心事は自らの所領であり、何の見返りも与えられずに外敵から国を守ることに満足するような「愛国心」を持つような世界ではなかったのである。

蒙古襲来絵詞(Wikipediaより)

文永の役・弘安の役の模様をストーリー仕立てで描いた 「蒙古襲来絵巻」という大作が現代に残っている。これは、肥後の御家人であった竹崎季長が、自らの戦功をアピールするために絵師に描かせたものだといわれている。絵巻物を活用したプレゼンテーションが功を奏したのか、季長は戦功への恩賞として首尾よく地頭職を手に入れることができたが、満足のいく恩賞を得られなかった多くの武将たちは次第に幕府と距離を置くようになり、鎌倉政権の求心力は低下した。土地を基礎とした経済の成長には、おのずから限界がある。蒙古襲来は、その矛盾を顕在化させ、統治機関としての鎌倉幕府の寿命を縮めたのである。




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