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連載日本史88 鎌倉幕府の衰亡(1)

蒙古襲来(元寇)以降、鎌倉幕府では内紛が相次ぐようになった。1284年、北条時宗が急死し、息子の貞時が十四歳で執権に就任すると、母方の伯父である安達泰盛が御家人たちの支持を得て、弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行ったが、翌年の霜月騒動で内管領の平頼綱に敗死した。頼綱は御内人(みうちびと)と呼ばれる得宗家臣たちの支持を得て実権を握ったものの、成人して自らの意志で政治を行おうとした得宗貞時と対立、1293年に反乱を起こして敗死した。

泰盛と頼綱が死去した後も両派の対立は続き、特に土地管理を巡って越訴(おっそ)と呼ばれる再審請求が急増した。貞時は合議機関の引付を廃止して独裁体制を敷き、裁判の迅速化を図ったが、公平性への不満は根強く越訴はやまなかった。1297年に幕府は永仁の徳政令を出して越訴の禁止、所領の質入・売買禁止、質券売買地の無償返還、金銭貸借の訴訟不受理などの方針を打ち出したが借上(金融業者)らの不満を招き、経済が停滞し、御家人たちの窮乏はかえって激化した。貨幣経済は信用によって成り立つ。時の政府の都合で貸借をチャラにされ、訴訟も起こせないのでは、安心して取引もできない。結局、翌年には越訴の禁止と訴訟不受理の項目については早々に撤回された。公平性だけでなく、一貫性にも欠けた施策であった。

永仁の徳政令(東寺百合文書)

独裁体制は合議制に比べ、政策の決定・実行が迅速に行われるという利点があるが、それは同時に最大の弱点でもある。特に落ち目の状況で焦って繰り出す対症療法的政策は、その拙速さによって、かえって事態を悪化させることが多い。永仁の徳政令の発布・撤回に象徴される一連の社会的混乱は、明らかに得宗独裁が招いた拙速な政策決定の弊害であった。もちろん緊急時には迅速な意思決定や強力なリーダーシップが必要な場合もあろうが、社会問題の多くは複雑な要素が絡み合っており、たとえ歯がゆくとも時間をかけて議論を重ね、少しずつ合意形成を行っていく方が、相対的に良い結果をもたらすことが多いものだ。急がば回れ。傾いた幕府の建て直しという貧乏くじを引く羽目に陥ってしまった貞時には同情を禁じ得ないが、落ち目の時だからこそ、その精神が必要だったのではなかろうか。


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