連載日本史55 国風文化(2)

弘仁・貞観時代から続く密教の流行に加えて、十世紀以降には浄土信仰が広まった。浄土とは死後の極楽世界であり、汚れも苦しみもない安らぎの世界である。現世利益に加えて、来世での平安と幸福を願う信仰が、貴族だけでなく、庶民にまで広がったのである。

浄土教流行の中心人物は空也である。奈良時代の行基と同様に社会事業を行いながら教えを説いた空也は「市聖」と呼ばれ、疫病流行の際には沈静を祈願して西光寺(六波羅蜜寺)を建立した。十世紀末には源信が「往生要集」を著し、念仏を唱えることが極楽浄土に至る道だと説いて後世の鎌倉仏教思想の母胎となった。藤原道長も晩年には極楽往生を求めて出家している。この世を我が世とした彼は、あの世も我が世にと願っていたのだろうか。

六波羅蜜寺 空也上人像(Wikipediaより)

平安時代初期には既に神仏習合が進んでいたが、十一世紀には、日本の神々は仏が姿を変えて現れたものだとする本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)が広まった。神社と寺院の融合という現実が先に進み、それを追いかけて後付けの理論が作られたわけだ。たとえば大日如来を本地の仏とする権現(ごんげん)が天照大神であり、阿弥陀如来を本地とした権現が八幡神といった具合である。外来の宗教である仏教の方を本地としているあたりに、当時の日本人の謙虚さがあらわれているような気がしないでもない。

本地垂迹説の一例(tetsu-log.comより)

御霊信仰の広まりも、平安中期の特徴である。天災や疫病の流行を怨霊や厄神の祟りと信じた当時の人々は、それを鎮めるために各地で御霊会(ごりょうえ)を催した。今も各地に御霊神社という名称の神社が残っている。

京都・上御霊神社(Wikipediaより)

十一世紀半ばには末法思想が流行した。仏教の教祖である釈迦入滅の年を基準として、仏教の教えが廃れて世界が滅亡に向かう時代を末法の世と呼び、日本では永承7年(1052年)が末法元年とされた。世紀末にハルマゲドン(世界滅亡)が到来するというノストラダムスの大予言のようなものである。というわけで人々は、現世利益を求める密教の呪術やら、来世の極楽往生を願う浄土教の念仏やら、日本古来の神々を祀る神社の祭礼やら、怨霊や厄神を鎮めるための御霊会やら、末法の世を何とか無事に乗り切るための宗教行事に大忙しであったと思われる。寄進地系荘園の領家・本家となり得るほどの力を蓄えていた当時の寺社の地位を支えていたのは、貴族から庶民まで幅広い階層の人々を巻き込んだ、神頼み・仏頼みの風潮だったのではなかろうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?