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SNSとの付き合いかた ―ライブハウスで耳栓を外してみて気づいたこと

「耳やられるといけないから、ライブ用の耳栓 持ってきたほうがいいよ」
 当日の朝、娘にそう言われて困惑した。ライブ用の耳栓?
「私のやつ貸せなくもないけど、さすがにそれは気持ち悪いだろうから、買ってくるといいかなって思って。私は今日はさすがに着けれないけど、ママは耳ヤバいと思うよ」
 急にそんなこと言われたって…という文句を飲みこんで、とりあえず言ってみる。
「飛行機用の耳栓なら、たぶん探せばあるんだけど」
「それは聴こえなくなっちゃいそだね。んー、楽器屋さんとかで売ってるんだけど」
「えー、楽器屋さん?」
「音をやわらげてくれて、でも、ちゃんと聞こえるやつ」

 新幹線で移動するのに、楽器屋さんはどこに寄ればあるだろう?って思ったけれど、家を出る頃にはすっかり忘れていた。外は霧雨。うっかり蹴飛ばした小石の音が折りたたみ傘のなかで響く。音楽系サブスクには登録していないから、家の外でイヤホンを使う習慣はない。いつだって環境音を通り過ぎながら生きている。“NO MUSIC, NO LIFE.”だったあの頃は、もうずいぶん遠くなってしまった。

 



 

 日常のなかに矢のようなコトバが溢れるようになったのは、いつからだろう。長いことインターネットで読み書きしてきたけれど、そういうコトバが集まる掲示板は避けてきたし、noteへ来てからも身近ではそういうコトバを見かけなかった。そうね、ある日突然スマホの青い鳥が黒い✕印に生まれ変わって、愛するドラゴンズに2年連続最下位の兆しが見え隠れしてきた昨夏くらいからかもしれない。

 つながっている人たちは基本ドラゴンズファンだけの野球アカウントなのに、試合に負けるとTLタイムラインは荒れに荒れた。監督やミスをした選手を寄ってたかって袋叩きにしたり、そういうアカウントと口論レスバするポストを目にすると、誰かを責めるそのコトバが「言刃コトバ」となって胸を刺す。刃は自分に向けられたものではない。そう解っていても、目から流れ込んできた刃はわたしを切りつけ、やがて血が滲む。
 好きなチーム、好きな選手たちを応援しているだけだし、趣味で野球観戦を楽しんでいるだけなのに、そんなのちっとも楽しくない。

 そういうポストから自分の心を守るために、わたしは言刃を投げつけるアカウントを片っ端からミュート、ブロックした。そうすれば鋭く鈍い言刃を見ないで済むから。新たにつながるときは、球場やお店などで知り合って話が合いそうな人だけに限定して、慎重にフォロー相手を選ぶようにもなった。

 言刃を通さないフィルターも、雑音や騒音をブロックする遮音壁も、暮らしには必要なときがある。心が健康なときはいいけれど、仕事が忙しかったり、メンタルが弱っているときは特にね。自分自身を守れるのは自分だけだもの。

 半年が過ぎて、球春到来。周囲の話によると今でも界隈は時々ざわついているらしいけれど、わたしの周りは無風。まったくのベタ凪。
 受容の範囲を超える雑音や騒音をカットした結果だから、それは当然のこと。わたしはミュートやブロックで、心の安寧を手に入れたんだと実感した。

 意見の合う人ばかりで構成された、平和で静穏な自分だけの世界。言刃に傷つけられることもない代わりに、未知と出会いアップデートする機会も失われていく。
 もしかしたら、これって老いへの入り口かも?と思ったら、ちょっとぎょっとした。
 今まで接してきた人生の先輩達のことを思い浮かべてみる。年齢を重ねて酸いも甘いも噛み分け、心が広く鷹揚に見える一方で、ときに他者への無関心や自己への執着を感じることも少なからずある。わたしも、いつかこうやって自分だけの世界に閉じこもっていくのかもしれない。

 でも、今のわたしは それでいいんだろうか。
 ベタ凪を解脱げだつのように感じる一方で、老いたエゴイズムの塊へと向かっていないだろうか。

 


 

 下北沢の改札を出た途端、昨年来たときも雨だったことを思い出した。娘の用事で出かけるときは本当に雨が多い。小学校の卒業式も、高3の夏の初戦も、娘が東京へ引っ越した日も。晴れ女は遺伝しないらしい。
 ライブの開場時間まではまだまだゆとりがあったから、地図を見ずに何となく見覚えのある通りを進んでいく。そっと息を吸って、野生の勘を手繰り寄せる。あの日、娘と雨宿りを兼ねて入ったクレープ店が美味しかったから、そこへまた行きたい。食欲は野生だ。

 ゆるやかな坂を下っていくと、店から出てきた男性とぶつかりそうになった。背中にギターのハードケースを背負っている。
 ガラスのドアの向こうには、アンプやギターが所狭しと並んでいる。それを見て思い出した。
「すみません、耳栓ってありますか?」
 レジカウンターの店員はギターを傍らへ置き、座ったまま駄菓子屋みたいなケースのフタを外して、無愛想に「どうぞ」と言った。
 5cm四方くらいの半透明の紙袋に入った、そのオレンジ色の耳栓には見覚えがある。娘がまだ家から東京のライブハウスまで夜行バスで通っていた頃に玄関で拾った、つまめば凹んでしまうほどやわらかな耳栓。

 ライブハウスを通り越して、ふと横を見ると、クレープ店があった。ちょっと迷って、贅沢なデザートみたいなクレープを注文した。ふわふわのカスタードの上にキャラメリゼしたリンゴが飾られていて、食べていくうちにサワークリームのホイップとリンゴが出てくる。全粒粉と豆乳の皮は、小麦の香りがしっかりとして、端っこはパリパリ。蕎麦粉のガレットみたいな食感。
 あの日と同じ、雨宿り。ひとりで食べても間違いなくおいしいけれど、その幸福感を言語化して分かち合える相手がいないのは、なんだかつまらないことだ。おいしさや幸せは、誰かと分かち合うことでさらに豊かに感じられるのかもしれない。

 


 

 ぎっしり詰めても100人強ほどのライブハウス。その入り口には小さな黒板が置かれていて、娘が企画したライブのタイトルが書かれている。LINEでこのタイトルに決めた理由を聞いたとき、正直、鳥肌が立った。いしわたり淳治さんに憧れ、歌詞の世界をとても大切にする彼女らしい、素敵な企画名だと思った。

 やがて会場BGMがフェードアウトし、照明が切り替わる。最初トッパーのバンドメンバーが登場して、楽器を手にとりチューニングを始めると、心拍数が上がったのがわかる。
 娘のひと言を思い出し、耳栓を両耳に突っ込む。ドラムイントロが始まると、靴の裏から身体中が麻痺していくような振動が上がってきて、わたしは曲の世界の住人になった。

 この耳栓、いったいどんな音がフィルタリングされてるんだろう? そう思ったのは、何曲か聴いてからのこと。
 かつて感音性難聴を患ったこの耳には耳栓が必要だと理解していたけれど、その好奇心を抑えられないのが物書きのさが。娘が呼びたいと思ったバンドの生音源を全身で味わってみたくて、わたしは曲の途中で耳栓を外した。
 瞬時に飲み込まれた。
 楽器そのもの、声帯そのものが鳴っている生音だけではない、増幅されて響き合う倍音やひずみや反響などの金属的なシャカシャカ音や重低音、ライブハウスの狭い空間を満たしているありとあらゆる音がふたつの耳からなだれ込んで、内臓を満たしていく。

 耳栓の内側で鳴っていた音楽と、生音源の世界は全然違った。耳には悪いかもしれないけれど、ずっと心を掴む何か、ほとばしるエネルギーみたいなものが、そこにはあった。彼らが頭を振るたびに飛び散る汗が、照明を透かして青く光る。半袖で歌うギターボーカルを見つめながら、わたしはその青春の輝きに身を委ねた。本物はこっちだ。

 MCが始まったとき、両方の耳がポーンとしていることに気づく。いけないいけない、耳を守らないと。でも、生で聴きたい…。迷った末、片側の耳は生音のまま、1曲ごとに右耳と左耳の耳栓を入れ替えながら、アンコールまで聴き、腕を上げ続けた。
 熱とやさしさのこもった、とても心地いいライブだった。

 


 

 フィルターは不純物を取り除くには大切で、時に自分の心身を守るためには不可欠なものだ。
 でも、あの小さなライブハウスで耳栓を外したとき、わたしは気づいてしまった。不純物や倍音やひずみを内包した状態こそが完全なる本物の世界で、フィルタリングした状態はエッジを削ぎ落として まるく切り取られた世界だということに。

 だからといって、SNSで垂れ流される言刃に無用に傷つく必要はない。
 簡単に外せるライブ用の耳栓のように、SNSの世界もフィルタリングしたり外してみたりしながら未知との遭遇を楽しんでいけば、より人生を豊かに楽しんでいけそうな気がする。
 大切なのは、どちらかを否定して世界を狭めるのではなく、意図的に切り替えて両面を見つめながら世界を楽しむ、そんな心の余裕を持つことなのかもしれない。

 

 



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