桜桃忌にちなんで

随分と前回の投稿から時間が空いてしまった。

本当はマメに更新したかったのだけれど、迫りくる修論提出に向けて近頃は論文を読んだり書いたりとしていたのだ。これでも一応は大学院生の隅っこを走っているのである。

そんな私の現在の専門はアメリカ文学。フィッツジェラルド、ヘミングウェイといったモダニズムを生きたロスジェネの作家たちへ関心がある。動乱の時代を駆け抜け、人々をシビアな目線で描いたヘミングウェイ、彼に作品への提言をしつつも作風は全く異なるフィッツジェラルド。個人的関心の強さはフィッツジェラルドに傾いてはいるけれど、いずれも興味深い作家だ。(またこの辺の話はいずれかできれなばぁ)

それはさておき、実をいうと大学に入った当初はまったく外国文学になんて興味がなく、もっぱら太宰治に私の心はむいていた。本日6月19日は桜桃忌と呼ばれる彼の命日。さくらんぼをもって想いを馳せたいところだけれど、あいにくさくらんぼが手元にないので私は文字で想いをしたためる。

有名な話なので今更わざわざ書き起こすまでもないけれど、桜桃忌の由来は太宰の好物がさくらんぼだったことにある。

実際彼は『桜桃』というタイトルの小説を書いている。けれどその内容はタイトルからイメージがつかないようなダメダメな父親の物語だ。『人間失格』など太宰の小説には太宰自身のイメージが投影されていると往々にして読まれるが、この小説も子育て、家庭の問題から目を逸らし続ける父親の情けない姿は、家庭を省みることのなかった太宰の姿へと重なる。父親は本当はこのままでは駄目であることは認識しているはずだ。それが冒頭

親より子供が大事、と思いたい。

この一文に集約されているのがわかる。しかし主人公である父親は、道化を演じながら、もしかすると何か障害を抱えているかもしれない次男の様子から目を逸らす。そしてラストの桜桃、子供に持ち帰ったら喜ぶかもしれないと思いつつ、自分の欲に負けて一人でかぶりつきながら「子供よりも親が大事」と呟く姿はやるせなさを覚える。

太宰の作品は三期に分かれて論じられることが多く、前期は『二十世紀旗手』など難解で正直理解しがたい作品が(個人的には)多いように思われる。中期は美智子夫人との結婚後、『富岳百景』、『走れメロス』など明るい作品が多い。そして苦悩の晩年、後期の作品には彼の代名詞ともいえる『人間失格』、未完の作品『グッド・バイ』が並ぶ。

専門家ではないので文学的なものは分からないが、太宰の小説には破滅が付きまとう。しかしその破滅には救いをどこか見出すことが出来るような気もする。いや、厳密には救いというよりも「共感」だろうか。

私はやはり性別が女性だからか、彼の女語りに心を惹かれてやまない。『斜陽』は戦後、没落貴族が夕日が傾き沈んでいくように、貴族精神を持ちつつも崩壊していく様が丁寧な描写で描かれている。主人公は好きな男性の子供を生むことで「道徳革命」を起こす。女性の地位が高くない当時としては、前衛的だろう。『女生徒』はお前は女子学生なのか?女子学生の仮面をかぶったおっさんだったのか?!と言いたくなるほど、繊細に、思春期の揺れ動く心が描かれている。私はすごく眼鏡を通して見る世界と外してみるぼんやりとした世界の表現の辺りがお気に入りである。それからなんといっても『葉桜と魔笛』は胸の締め付けなしには読むことが出来ない。多感な女子高生(自称)だった私にとってこの作品との出会いは衝撃的であり、繰り返し繰り返し書かれた文章を声に出して読んだ……。

といった具合に私の太宰への惚れこみ方には必ず「共感」が付きまとう。ダメ人間でもいいんだ、こんな世界の見え方、痛いくらい目にまぶしく入る光……言葉で言い表すことのできない感情に、独特な息遣いで名前を与えてくれる。太宰治は私にとってそのような作家なのだ。

ただ研究対象としては今となればどうだろうか、とも思ってしまう。私は太宰の文章が骨にしみいるように好きだが、客観的に論じることができるのかといえば自信はない。けれど『葉桜と魔笛』で主人公が祈るように「神様は在る。きっといる」と語ったように、私の中にも太宰は「在る」のである。太宰のような人が本当に身近にいれば困ってしまうけれど、彼の小説は少なくとも私のつらい気持ちを救ってくれるような、薬のような存在なのである。

P.S高校生の頃、大人になればきっとある時期太宰を読むのがしんどくなる時が来るよ、と言われた。もうすぐ20代半ばだけれど、子供じみた感情で太宰に想いを馳せる私はまだまだ子供(中身が)なのかもしれない。また年を重ねて彼を違った見方で考えることができるのならば、彼を一度は嫌いになるのも悪くないなぁと思うのだった。



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