パワハラ認定されるから何にもできないって言う人と、ニューヨークの図書館について

「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」 という映画を観た。
アメリカのニューヨーク市にある公共図書館(市がお金を出して、市のお金+民間の寄付で、NPOが運営しているらしい)の仕事を淡々と撮影したドキュメンタリー映画で、いわば「透明人間になって」(公式パンフレットより)職場見学をしているようなだった。
※以下、映画のネタバレを含みます。

映画は、図書館のホールでリチャード・ドーキンスが講演している場面からはじまる。10分おき(体感)ぐらいに場面が変わり、図書館を運営するスタッフの会議、図書館で行われる様々な講演やレクチャー、ダンスや演奏会、子供むけの勉強会などのプログラム、黒人文化研究センターのセレモニー、移民や障害者に向けた生活支援サービスなどなど、図書館で行われているバラエティー豊かな仕事が映し出される。ナレーションはなく、ただそこにいる人たちの会話が流れてくるだけ。

図書館の日常が映し出される3時間半の間、私は徐々に増してくる尻の痛みとともに「ここはとても安全なところだ」ということをずっと感じていた。そして、映画館を出てからも、あの安全の感覚はなんだったのだろうとずっと考えていた。

もちろん図書館は物理的に安全だ。ニューヨークは治安の良くない場所が沢山あるし、なんといっても全てにお金がかかるガチ資本主義の国なので、図書館は市民にとって、無料で一息つける貴重な場所らしい。スタッフはフレンドリーで困ったことがあれば助けてもらえる。
でも、きっと私が感じていたのはそういうことではないと思った。

日本ではずっと昔から、女性が自分のためにオシャレをするとバッシングを受けるという風潮がある。障害者や病人の家族や、子育てをしている人が個人的な快適さや楽しさを追求したり、人生を楽しもうとするのは不謹慎だと思われる。災害や犯罪被害に遭ったり、家族を亡くした人、病人や障害者はずっと悲嘆にくれていないといけないような雰囲気がある。貧困家庭の子供がより良い未来のために勉強したいと思っても、贅沢だと言われる。

私の住む国は、上位でない集団、女性とか男女以外の性であるとか、子供、病人、障害者、その家族とか、若輩者だとか日本国籍じゃないとか、まあほぼ全員かもしれないけど、そういう集団の人が上昇しようとすると、すごく強い力で足を引っ張られる社会だ。
そして多分、このしくみは1匹の怪力足引っ張りモンスターによってつくられているわけではない。誰かが上昇しようとすると、立場や発言力のある人を中心に、周りの全員が足を引っ張る草の根運動でできているんだと思う。おとなしいけど勉強好きな子がいじめられたり、会議で素敵なアイデアを発表した新社会人が、いやーこれが現実だからって冷笑されたりするアレである。

ニューヨーク公共図書館の映画には、何度もスタッフ同士や、スタッフと市民が話し合う場面が出てくる。映画で切り取られているこれらの会話は、いつも徹底してポジティブだ。もちろんキラキラハッピーなポジティブさだけではなく(むしろそうでないことの方が多い)、人が学ぶことや挑戦することにたいして常に肯定的で、背中を押してあげようという気概、みんなでより良い世界を作ろうという前向きさがあった。

透明人間になってニューヨーク公共図書館にいる間、私はふわふわ体が浮くような気持ちがした。
私は障害者(ADHD+ASD)だ。リアルで障害をカミングアウトした相手には、いつも無意識にちょっとだけ気を使っていると思う。実際よりも若干かわいそうに見えるように、幸せに見えすぎないように。障害があっても普通に幸せそうに生きてることを前面に押し出している友達もいて、すごいなと思うし、かっこいい。
でも、私はやっぱり怖い。私は障害者であることによってお金を稼いでいるわけではないから、社会人の私にとって、障害はただのハンディでしかない。ほとんどの障害を持つ人がそうだと思うけど。迷惑をかける代償を払えないからバッシングが怖い。だから実際よりちょっとだけ不幸そうにしてしまう。それが、そこまで相手を気持ちよくしないのも知っている。でも、やっぱり、私めっちゃ幸せです、みんなありがとー!イエーイ!ってやるのは怖い。

私たちの足首にはいつも見えない鎖が巻き付いていて、今いるところから前に進もうとすると、すごい力で引っ張られる。時々、会社とか学校とか家庭とかの小さな集団で権力を持っているおっさんやおばさんが、パワハラとか虐待とか言われちゃったらもう何もできないよねー、堅苦しい世の中ねっていうのを聞くことがある。白状すれば、私も(世代的に口に出すほどの厚かましさはないけれど)若干そういう気持ちになることがある。
彼らは、私は、自分たちを抑圧者たらしめている鎖が切れるのが怖いのだ。自分たちより地位の低い誰かには、永遠に同じ場所でちょっとだけ不幸でいて欲しいのだ。


週末の朝、映画館は満員だった。20代っぽい見た目の人から、結構なお年寄りまで、老若男女いろいろな人がいた。
私たちは抑圧者になることも抑圧される側になることもある。そして私たちの多くは、そのどちらかでいるための振る舞い方しか学んでこなかった。
もちろん、抑圧する人、される人、そのどちらかでいなければならないというのは錯覚だ。迷惑をかけるから前に進もうとしてはいけないというのは錯覚だ。アスペ力を発揮してまわりの人間たちをよーく観察すると、迷惑をかけたり失敗するのは決して我々の特権ではない。定型発達の人もそれなりに失敗して迷惑をかけながら生きている。私だって「ふざけんなよ」と思いながら定型発達の誰かを助けることある。

今、本を読んだり、Web上のエッセイを見ると「私たちには抑圧する人・される人のどちらにもならないという選択肢がある」というメッセージであふれている。だから私はずっと前からそのことを知っていた。
知ってはいたけど、そんな場所が本当に作れるのかいまいち確信が持てなかったし、そのためには、例えば会議とかで、どういう風に振る舞ったらいいのかわからなかった。
でも、映画の中で真面目な顔をしたおっさんやおばさんが、まあ色々あるけどみんなで幸せになろうよ!前に進む人をバックアップするのはマジで大切だよね!みんなでがんばろう!という趣旨のことを話し合っているのを延々聞いているうちに、あれ、結構やればできるんじゃない?という気持ちになってきた。足首に巻き付いた鎖に対して、私たちは自分で思っているほど無力ではないかもしれない。だって同じ時代に生きる人間が(少なくとも3時間半は)足を引っ張り合う感じでなくポジティブに議論を進められるっていう実例を見たから。
パワハラーやモラハラーでなくなっても、上司や先輩や親や夫や妻であることが消えちゃうわけじゃない。何もできなくなるわけじゃない。それなりにうまくやれる道はある。だから大丈夫。

もちろん、アメリカには「足首の鎖」がないわけじゃない。半分想像だが、超あるといっていいのではないだろうか。繰り返しでてきた黒人差別の話題のはざまに図書館幹部の記念撮影の場面があり、写ってた人がほぼ白人だったことはかなりグロテスクだった。
すぐには現状は替えられない。それでも、前進したいと思ったときにそれを100%肯定してくれる場所があるというのは、どれほど安全なことだろう。子供よりは権力のある大人になった一人として、私も誰かの安全地帯にならなければならないし、もっとそういう人・場所が増えるように行動しなければならないと思ったのであった。

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