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意味のある自由

(1190字)

「私、あきちゃんとの子どもを送りたい」

菜摘の呟きに私はスプーンを取り落とした。一瞬で頬が熱くなった。よほど異常な体温にならない限り血中ナノマシンは治療も通報もしないはずだけれど、耳の奥に響くほど大きく速くなった鼓動は私を本気で不安にさせた。

2049年。世界は何もかもが前世紀と違い、何一つとして失っていないという。変わったように見えるのは、絶対だと思われていたすべてのものが選択肢の一つに身をやつしただけだと。錠剤完全食が支給されても未だ調理と食事を楽しむ人はいる。自動列車の軌条が世界中を繋いでも歩いて旅する人は少なくない。冷凍睡眠が確立しても地球を離れない人は大勢いた。

緩慢な一秒が過ぎてもナノマシンからの通知はなく、しかしそれで私の不安が解消されたわけでもなかった。早く答えなければ菜摘まで不安にさせてしまう。毎晩のキャンプで読みふけってきたウェブ小説ではこんなときどう返していただろう。台詞が口から出てこない。選択肢が思いつかない。

私は歯を食いしばって天を仰いだ。山の上から見上げる青く澄み渡った冬空には、いくつかの人工衛星が等間隔に並び漂っていた。実に腹立たしい静けさだった。本当に協力してほしいならマニュアルでも配っておけというのだ。私が憤懣やるかたない気分で視線を戻すと同時に、今度は菜摘が俯いた。

「……勝手なこと言ってごめんね。でもリアルで会える友達って他にいなくて、地区を通り過ぎる人たちはちょっと怖いし、大人は……偉そうで嫌だし。それにほら、あきちゃんも、私もまあ、かわいい方でしょ。だからその、もし同じ気持ちだったらって思ったんだけど……でも」

「待って」

捲し立てる菜摘を掌で制し、顔を上げた彼女の前でその手を裏返した。菜摘はぼうっと私の手の甲を見つめた。

「……押し切られたわけじゃないからね。私だって、作るならあんたとのデータがいい、と、思う」

結局、私は不細工な言葉を絞り出すことしかできなかった。それでも菜摘は嬉しそうに頷いて、そして右手の甲を私に向けた。

鼻を突き合わせる野良猫のように互いの手の甲を触れ合わせ、結合遺伝子――百年以内に来るという外宇宙進出時代に輸送される受精卵とニューロンのデジタルデータ――の送信に同意し、そして私たちは待った。

必要に応じて宇宙船内あるいは惑星上で生成されるクローンの組み合わせは、完全な無作為ではなく縁ある人同士から選択する。その理念をどこかの誰かが唱えたとき、否定する人間はいなかった。それが本心からの期待だったのか、古びた種族の妄執だったのか、私は知らないし今でも興味がない。もっと大事な現実が目の前にあった。

肌の触れ合いと、もっと奥底の情報交換はどんな刺激も伴わなかった。静電気程度の痛みも、あくび程度の快感すらなかった。それでもどうしようもなく気恥ずかしくなって、私と菜摘はお互いの紅い顔を見ながら笑い合った。

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