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サブカル大蔵経77ジュンパ・ラヒリ/小川高義『停電の夜に』(新潮文庫)

 新しい「インド文学」は、ハズレなき短編集でした。民族の断絶や生活の苦悩などの問題を描いて、現代的な小説かと思いましたが、実は、この文章の圧倒的なうまさは、インド伝来の話の運び方なのでは?と妄想もしました。それぞれの題名は、

停電の夜に
ピルザダさんが食事に来たころ
病気の通訳
本物の門番
セクシー
セン夫人の家
神の恵みの家
ビビ・ハルダーの治療
3度目で最後の大陸

 哀しみの中に生きる人生。よく男から見た女をこれだけ描けるなあ。向田邦子を彷彿とさせる。
 インド人あるあるネタも嬉しい。香料、生姜とニンニク、化粧、レモントウキビ。
ビビが門番のおばちゃん、セン夫人、ミセス・クロフト、になるのかな。

この頃は料理が面白くなった。それくらいしか生産性を感じるものがないとも言える。p.17

 夫婦の気持ち。

普通のアメリカ人だが、マニアみたいなやつでね。ウルドゥー語とサンスクリット語を知っていた。p.31

 サンスクリット語はサブカル的。

パイを切ったみたいな。こっちがヒンドゥー、あっちがイスラム。もうダッカはインドじゃなくなった。p.45

 そういう語りがあるのかな。

そこでは樹の上に戻った猿どもが、下の光景に厳かな観察の目を向けていた。カパーシーも見ていた。これだけがダス一家の映像として記憶になることもわかっていた。p.113

 この辺の文章が上手く、少し恐ろしい。

昼までの時間が長かった。昼過ぎはもっと長かった。お茶などというものを飲んだのはいつのことだったか。もう苦労した昔のことも、楽だった昔のことも考えなくなって、いつになったらダラス夫妻が戻ってきて、新品の毛布をくれるのかとしか思わなかった。p.132

 人種と境遇の二重孤独。

すでにエリオットも、セン夫人の言う「うち」とはインドのことであって、座って野菜を切っているアパートではないことを心得ていた。そして自分の「うち」を考えた。距離で言えば8キロしかない。p.190

 インド以外の国に住むインド人。

「ここの人、みんな、自分だけ世界にいる」p.197

 アメリカをひとことで。

「写真を送って、なんて言う手紙が来る。アメリカ生活の写真、だってさ。どんなのが送れるのよ」ろくに座るところもなくなったベットに、へたりこんだ。p.204

これが彼の家にあったのが、彼のものであるのが嫌だ。p.253

突然、「皮だっ!」と言う叫び声がした。「皮の匂いを嗅がせろ」p.271

1世紀に比べればないに等しい時間である。p.307

 このおばあちゃんは何を表す?

「完璧。いい人みつけたね!」p.315

 この一言が伝わるための出逢い。なぜ出逢えたのか。外に出たからだ。そして、すぐそばでもうひとつ違う時間を過ごしていた人と出逢えたのだ。

ラシュディ氏は今では古来のインド諸語よりも英語で生産される文学こそが重要。p.326

 英語で書かれるインド文学。

 インドは世界の中でメインではない。サブカル的だった。ヒッピーの聖地、印欧語の研究、AIシステムにおけるインド人技術者の下支え。しかし、世界がインド化するのはもう遠くない気がしています。

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